metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

私は貴方の言うことは聞きません コメント2

私は貴方の言うことは聞きません。

私は、貴方の言うことに何の真実味も感じません。

貴方の言葉は自己讚美ばかりです。

神を讚美する言葉を並べ立て、

自己讚美する貴方の言うことは聞きません。




貴方は、誰に向かって命令しているのですか?


貴方は何様ですか?


私は、貴方のようになりたくありません。


ですから・・・


私は、貴方の言うことは聞きません。



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赦されるよりも・・・私にとって、ずっと気になる事、大切な事。コメント4

大切に思っている人を傷付けてしまった時、人は、とても落ち込みます。

意図せずに傷付けてしまった場合も、
意図的に傷付けてしまった場合も、
自分の未熟さから傷付けてしまった場合も・・・

人は、大切に思っている人を傷付けた時、かなりに、へこみます。

そんな時、人は自己嫌悪と同時に、傷付けてしまった相手の傷が癒えて欲しいと・・・
それを無意識に強く望みます。

自分が傷付けてしまったにもかかわらず、相手の傷の痛みに、自分も酷く痛みます。


祈りは・・・・
謝る事と同時に、自分が傷付けてしまった相手の傷が、癒える事を、無意識に強く祈っているものだと思います。


「傷付けてしまった自分を赦して下さい」・・という感情は、先ず湧いてきません。


「自分が赦される、赦されない」よりも、相手の傷の方がずっと気になる事柄です。

と、いうよりも、それしか普通、頭に無いものなのではないかと・・・私は思うのです。

それが、一般的な感覚だと私は思うのですが・・・





そう考えると・・・
私はクリスチャンと言われる方の中に、とても違和感のある感覚の方を時々お見かけします。


「過去、自分は様々な悪い事をしていたけれど、神様を信じる事によって自分は神様に赦されたのです
。有り難い事です。感謝です」

と、いう方々です。



物凄く違和感を感じています。



私の感覚では、自分が赦された赦されれて無いは、問題では無いのです。


気になるのは、自分が傷付けてしまった人のその後です。そして、自分が傷付けてしまった人を大切にしている人達の心の傷です。


自分が傷付けてしまった人が、今、幸せなら、それだけで充分で、自分が赦されたとか、赦されていないとかは、どうでも良いのです。




ジョン・ニュートンという人がいます。
アメイジング・グレイス」の作詞者です。

私は、この人の過去を知り、その後、この詞を読み返した時、ゾォ~っと鳥肌が立ちました。

過去にしてきた事に鳥肌が立ったのでは無く、その過去を踏まえて書かれた詞の内容にゾォ~っと鳥肌が立ったのです。


自分の様な者が赦されて有り難い。
自分の様な者が救われて有り難い。


どうでも良いのです!そんな事は!
まともな感覚の人間ならそんな事より、自分が殺した、傷付けた奴隷の人達の救いの方が、ずっと気になるのではないか・・・と、私は思うのです。


奴隷の人達の魂を思えば、口が裂けても、救われて有り難い、赦されて有り難いという様な種類の言葉は出てきようが無いと、私は思うのです。


奴隷商人をしていた頃と、奴隷商人を辞めて牧師になった時と、表面やする事は変わっても・・・


本質的には、何も変わっていない・・のです。


とても恐いです。


なので、私にとって、ジョン・ニュートンは、ただの、恐い白人のおじさんです。


それと同様に、
「過去自分は散々悪い事をしてきたけれど、神様はそんな自分を赦して下さったのです。有り難い事です!」

・・・・と、いう方々は、私にとって、ただの恐い人です。

「自分の様な者を赦して下さって有り難い」という、その言葉に、昔の悪かった頃と、本質的には何も変わっていないと感じるからです。


傷付けてしまった人の傷の痛みに、もがき苦しむ姿は、その言葉からは見えません。

又、傷付けてしまった人の傷の痛みに、もがき苦しんだ人からは、その言葉は出て来ません。


それは、傷付けてしまった人の傷の痛みに、もがき苦しんだ事のある人は知っています。



聖書の基本は、「人の傷の痛みに対する、はらわたが捩れる程の共感から」だと、私は解釈しています。


「私の様なものを赦して下さったから有難い」
という感覚は、聖書の教えから一番遠い感覚だと私は感じています。



「私の様なものが傷付けてしまった人達を、救って下さったから有難い」


そこにしか・・・
救いは無いように私は感じています。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

最後に、お赦し下さいと祈る事と、私は赦されたと、そこに胡座をかく事は別物だという事を付け加えさせて頂きます。お赦し下さいと祈る事には違和感を感じていません。私もお赦し下さいと祈ります。
今日の記事は、そういう話では無く、別の論点で書かせて頂いた事も付け加えさせて頂きます。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦☆♦♦☆
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注意や批判に弱いクリスチャン達 コメント2

「人を批判してはいけません」
「人を批判する人間にならないで下さい」

よく聞くセリフ、よく目にする言葉です。

ところが・・・・
「人の批判をしてはいけません。」
「人を批判する人間にならないで下さい」

・・・・と、おっしゃる方で、人の批判をされていない方を、私は見た事がありません。
ただの1度もです。

批判に批判的な方が、随時人を批判なさっている事を、私は、とても不思議に思っています。

ひょっとしたら・・・
そういう方々は、ご自分が随時人を批判なさっている事に、お気付きになっていらっしゃらないのかも知れないと、感じたりしています。




ところで・・・・
皆様は、注意や批判にお強いでしょうか?
一般的には、注意や批判は、痛くて、頭で解っていても、心が聞き辛い種のものなのかも知れません。


私のいる世界は、たまたまですが、注意や批判が無いという事は、殆んど見捨てられているも同然なところがあり、注意や批判をして貰えると有り難い・・・という世界です。


私のいる世界が、特殊なのかも知れませんが、私にとっても、注意や批判は、とても有り難い種類のものです。

注意や批判をして頂けた時、自分の中で吟味して、取り入れさせて頂いたり、保留にさせて頂いたり、却下させて頂いたりしています。

なあなあが一番怖く、なあなあになってしまったら、だらしなく弛んで、向上は望め無い、仕事にならない、という世界なので、本当に注意や批判は有り難いのです。




私の事はさておき・・・・



注意や批判をされた時の反応は、本当に人それぞれです。

喜ぶ方もいれば、落ち込む方も・・・そして敵意を持つ方・・・本当に人それぞれです。
そんな中で、私がいつも不思議に思う反応があります。熱心なクリスチャンホームの方々の反応です。
あきらかに、他とは違うので、私も周りも目を丸くする事が多いのです。

プイっと、そっぽを向く。
睨み付ける。
まくし立てる。
ニヤニヤする。
ハハハと大声で笑う・・・。


注意や批判をなさっている方も、注意や批判とわからない位に気遣って、言葉や口調に気を付けていらっしゃるのに、それは失礼ではないかと、感じてしまう反応です。

何故、そんな対応をなさるのかとても不思議に思っています。


で・・・・
そんな熱心なクリスチャンホームの方々が人を注意したり批判なさったりしないかというと・・・

他の誰より、常に人を注意したり批判されているのです。


自分がされるのは嫌だけど、人にするのはOKというのは、おかしな話だと思っています。





注意や批判というものは、時にとても耳に痛かったりします。

しかし私は思うのです。

聞き心地の良い言葉よりも、耳に痛い言葉・・・
甘い言葉より、苦い言葉・・・

それらは時に、自分の宝になります。


確かに、ただの悪意の批判もありますが、そうでない批判も、沢山あります。

良いものもと、悪いもの(悪意のもの)の区別がつかない様では、神様が人を遣わして贈って下さった気付き迄も、サタンのもの・・!と言ってしまいかね無いと、私は思っています。



ただの悪意や意地悪で無い注意や批判は有り難いものです。
そして、怒りからくる批判も、時に私達に気付きを与えてくれます。



私は、耳に痛い言葉や苦い言葉を、

時には喜びながら、
時には落ち込みながら、
時には疑問を持ちながら、
時には反発を感じながら・・・


そうしながらも、有り難いものとして、
受け止める事が出来る者でいれたらと願っています(^.^)



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人を肩書きで判断してはいけない。勿論それが牧師さんであってでもです。コメント2

人は案外、相手の肩書きで、その人の、人となりを判断してしまうところがあるのかも知れません。

そうではない方。つまり人と関わる時、一切の「色眼鏡」をかけない方も沢山いらっしゃる事と思います。

実は私も、数年前迄は、「私は人と関わる時、色眼鏡で見る様な人間ではない!」と、自負していました。  

ところが・・・・
そんな自負が、カタカタカタ・・・と、数年前に脆くも崩れ落ちてしまいました(ToT)





私は何故か、牧師の方と非常に親しくさせて頂く時期が数回ありました。


信仰を通じてではなく、仕事を通じてです。


その数回とも、私の方から親しくさせて頂いたのではなく、牧師の方から私に急接近して来られました。

頻繁な電話や手紙・・・
流石に、私の行く所に突然、現れられた時には、本当に驚きました。
仕事上の関係では、私は、その牧師の方々に指導をする立場でした。

そして、いつもにこやかに、柔和に近付いて来られました。


普段の私なら・・・・

この様に、柔和ににこやかに、急接近して来る人には対しては、強い警戒心がわくのですか・・・


この牧師の方々に、私は警戒心が全く湧かなかったのです。(-""-;)



何故なら・・・
牧師さんでいらしたからです。



一人目に出会った牧師の方に関しては、周りから沢山の忠告を受けていました。

ある時は、面識の無い信者の方に呼び出されて、
「あの人には気を付ける様に」と・・・

又、ある人からは「あの人を信じちゃいけない」と、手紙を頂き・・・

又、ある時には、面識の無い、その牧師さんの教会の近所の方が突然訪ねて来られ、「関わらない方が良いですよ」・・・・と。


はい(-""-;)
その牧師の方は、教会周辺で悪名の高い牧師さんでいらっしゃいました。


普通、ここまで面識の無い色んな方が、私に直接、話をしに来られたなら、「何かあるのかな❓」くらいは思いそうなものなのですが・・・。


私は・・・思わなかったのです。



なぜなら・・・
牧師さんだから・・・・。



牧師さんだから、そんな悪い事をする筈が無い!
牧師さんだから、祈りと一番共にいらっしゃる方が、そんな悪い事をなさる筈が無い!・・・と。

皆、どうしてそんな酷い事を言うのだろう・・と。



数年後。
しっかりやられました。
しっかり金銭的詐欺にあいました。

裁判を起こし、取り返そうかと迷いましたが、色々、総合的に考えて、「高い授業料を払った」と思う事にして、その牧師との関わりを一切断ちました。




そして、次に出会った牧師の方も・・・・

金銭的詐欺には合いませんでしたが、仕事上、大きな損害を被りました。


その牧師に対しても、私は「牧師だから大丈夫」と、自分に近付いて来るのを許しました。
普段なら、絶対に関わらないで距離を置くタイプ方だったのに・・・。




そして・・・・

私は、これらの経験から大きな事を学べました。

私は、自分は色眼鏡で人を見る様な人間ではないと思っていたのに、実は、しっかり色眼鏡で人を見る人間だったのだと・・・。


私は、その人を見ず、その人の「牧師」という肩書きを見て全面的に信用していたのです。


本当に私は、お馬鹿です。


もし、あの牧師の方々が「牧師」という肩書きを持っていなかったら、私はあの方々の言動を見て、絶対に警戒していただろうと思います。


その後、私は、相手が、司祭であろうと、牧師であろうと、先生であろうと、一切の「肩書き」を見ないで、その人の言動のみを見る様になりました。


本当に高い授業料でした。


今後、この痛い経験から、「牧師に用心する」という、色眼鏡をかけない様に気を付けなければ・・・


と・・・・思ってはいるのですが・・・。


チラリ・・・とでも、上記の様な牧師と、同じ匂いのする牧師に出合うと、「警戒しよう」と、思っている私がいます。


そして、その「勘」は、案外、当たっているのではないかな・・・と思っています。


その人の肩書きを、その人から取って、その人を見た時の・・・


私の「勘」です。




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攻撃的で挑戦的なクリスチャン達 コメント2

皆様は、人と仲良くしたいタイプでいらっしゃいますでしょうか?

それとも、ケンカしたいタイプでらっしゃいますでしょうか?

それとも、本当はケンカしたいけれど仲良くしなくてはならないと思っていらっしゃるタイプでしょうか?

それとも、仲良くしたいのにケンカを売られるタイプでしょうか?



攻撃的で挑戦的というタイプの人がいます。

又、友好的なタイプの人がいます。


とても不思議な事ですが、友好的なタイプの人が非常に攻撃的に見える事があります。

又、非常に攻撃的で挑戦的な人が、友好的に見えたり、穏やかに見えたりする事があります。

・・・・・・。

キリスト教を批判する方々がいらっしゃいます。
日常でも、ネットの世界でも少なからずの数で、いらっしゃいます。

この方々は一見、攻撃的です。
しかし・・・よく読むと、人に対して非常に友好的な感性である事が汲み取れます。


又、一方、キリスト教的に物事を肯定的に語る方がいらっしゃいます。日常でもネットの世界でも少なからずいらっしゃいます。

この方々は一見、友好的です。
しかし・・・よく読むと、人に対して非常に攻撃的で挑戦的である事が読み取れます。


一見、攻撃的に見える友好的な人というのは、
一見、友好的に見える攻撃的な人を、しっかり見抜く感性を持っている様に感じます。

一見、攻撃的に見える友好的な人達は、友好を装おいながら攻撃し挑戦してくる人に対して、非常に敏感です。そして受けた攻撃と挑戦に対して、しっかりと立ち向かう様に感じます。

その姿が、人には攻撃的に映るのかも知れません。



友好を装おった攻撃的で挑戦的なクリスチャンは、まず、自分の中の攻撃性と挑戦的な性質を、しっかりと見つめる事が必要な様に、私は感じています。


クリスチャン自身が気が付いていない、攻撃的で挑戦的な性質は、しっかり周りからは見抜かれています。


大変失礼ですが、牧師の方々の攻撃的で挑戦的な性質は、しっかり見える人には見えています。
勿論、全ての方がそうで無い事は付け加えさせて頂きますが、非常に多くの牧師の方々が、攻撃的、挑戦的でいらっしゃると感じます。



悪臭は蓋をしても匂う。けれど光は、どんなに手で覆い隠しても漏れる。
・・・・と、言います。



クリスチャンが、どれ程攻撃的で挑戦的なのか、どんな風に攻撃的で挑戦的なのかは、キリスト教を批判する方々から学べます。



聖職者や牧師から信徒まで・・・
クリスチャンは、見たくない自分の攻撃性を、
心を裸にして見つめ直す事が必要とされている

と・・・私は思います。




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上品で、可愛くて、おおらかで、屈託がなくて、親切で、優しいあの娘 コメント2

あの娘はとても優しい娘。
人には親切で、人懐っこい可愛い娘。
人を疑うことも知らなくて、
人の良いところばかり見える、おおらかな娘。
そして、とても品の良い娘。


あの娘の両親は、あの娘の事を、
とってもとっても大切に育てた。


人を妬んだり、人に敵意を持ったり、損得勘定で人を見る様な娘にはならない様にと、お金を惜しまずに、あの娘を育てた。


あの娘は、自分がお金持ちだと知らない位に、おっとりと豊かに育てられた。


お金持ちだという意識さえ持たない、本当のお金持ちの娘だった。
彼女の孫の孫迄、何もしなくても食べて行ける本当のお金持ちだった。
成金さんのお嬢さんではなかった。


だから、お金持ちを鼻にかける事も知らない、上品な娘だった。


心の品格が備わった娘だった。


勿論、貧しい人や、弱い人にも、とても優しい娘だった。



彼女は本当に、いい娘だった。




みんなが言った。

「やはり育ちが違うわね。育ちって大事ね。」
・・・・・・・。





あの娘のパパは、有名な会社の社長だった。
あの娘のおじいちゃまは、その会社の会長だった。
あの娘の、ひいおじいちゃまは・・・・
武器商人だった。




「育ちが違うから、あんなに上品なのね」
「育ちが違うから、あんなに優しいのね」
「育ちが違うから、あんなに可愛いのね」
「育ちが違うから、あんなに明るいのね」
「育ちが違うから・・・・・・・・」



優しさも、品性も、明るさも、おおらかさも、親切な人柄さえも・・・・

何ひとつ、自分の力で身に付けたものではない。

才能や、努力する力さえも、何ひとつ自分の力で身に付けたわけではない。



優しさ、品性、明るさ、おおらかさ、親切な人柄、努力と力、才能・・・・
全ての良いものは、神様からの送りもの。


下品で人を妬む卑しい人間も、あの娘と同じ育ちをしていたなら、上品で、明るくて、親切な人になっていたかも知れない。


上品で、明るくて、親切な人間も、違う育ちをしていたなら、下品で人を妬む卑しい人になっていたかも知れない。



育ちは自分で選べない。
育ちで身に付けた良いものは、何ひとつ誇れない。
ひょっとしたら、その育ちの陰で、沢山の命が失われていたのかも知れない。
あなたの美しい品格は、武器で殺された沢山の命の犠牲の代償なのかも知れない。




人は、どんな良いものも、誇れない。

全て、その人の力で得たものは無い。

全ての良いものは神が与えたもうもの。




ならば・・・・

全ての良いものは、全ての人と分かち合うためにある。

全ての良いものは・・・・

「自分のもの」ではない。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

私は、まだ10代の頃、努力して何か成果をあげた人の事を、それはその人の力で頑張ったのだから、その人は、努力しない人より素晴らしい人だと思っていました。

又、品の悪い言葉遣いをする人を、何て下品な人なのだろうと、呆れていました。


20代、30代と、世の中の仕組みを知るにつれ、私は今迄の自分の考え方に疑問を持つようになりました。

何ひとつ、人は自分の力で得たものは人は無いのだと・・・世の中の仕組みを知るにつれ感じざるを得なくなりました。

エス様のおっしゃる価値観は、そういう意味で、全くその通りだと感じます。

今は全ての人に与えられ、自分にも与えられた良いもの、美しいものは、自分のものでは無い。と本気で思っています。
どの人であっでも、そうであると思っています。


全ての良いもの、美しいものを、全ての人が共有し合う世の中であれば、本当に素晴らしいだろうと思っています。


あなたの良いものに感謝を込めて・・・・

最後までお読み頂いて、有難うございましたm(._.)m

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ルカ16章の不正を働いた管理人の話も、ラザロの話も、基本は全く同じ コメント7

先日、コメントで、ルカ16章の不正を働いた管理人の話題が出ました。

人により、又、教派により、解釈は色々なのだと思います。

この箇所の解釈で、今、私が1番納得している解釈をコメントの返信で書かせて頂きました。

今日は、それをコメントの返信内容をそのまま記事にさせて頂きますm(._.)m

是非お読み頂ければ有難いですm(._.)m

以下の通りです。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

ルカの16章8節について・・・。
以下は、私が今一番納得している解釈ですが・・・

ルカ16章は最後の章迄、お金や財産について書かれていますよね・・・。
それで、この8節ですが、お金持ちの主人と、貧しい管理人が出てきます。他にも、この主人に負債のある貧しい人達が出てきます。

お金持ちと貧しい者が出てくるわけですが、聖書の神様はいつも、貧しい者、弱いもの、小さくされている者に、目を留めていらっしゃいます。
お金持ちと貧しい者がいる・・・という、その事自体が、イエス様の言われる、み国ではない・・・という考え方です。
もっと思い切って言わせて貰えば、お金持ちは金銭や財産を一人で抱え込むな・・という考え方です。

一人で抱え込むのは、ある意味、貧しい者達から金銭を搾取していると、いえる場合もあります。

しかし、お金持ちは、なかなか自分から自分の財産を手放して貧しい者達とお金を平等に共有しようとは、なかなかしないものです。

そこで、このルカの16章8節の、貧しい管理人は、やはり主人に負債のある貧しい者達の負担を軽くする事で、自分も助かり、貧しい者達も助かるという対処法を考え、この行動に出ました。

凄いなぁ・・と思うのは、この対処の仕方に対して、このお金持ちの主人は、貧しい自分の管理人を誉めたということです。

この時代の宗教者(光の子)達よりも、良い感性を持っていると、貧しい管理人の事を誉めたというところが、ブラボー!です。

そして・・・
この16章の最後は、ラザロという、読んでいて胸の痛む貧しい者を出して話を締めくくります。

一番私達に解りやすい形の話で締めくくられます。


8節の管理人の話も、19節のラザロの話も、基本、言っている事は同じです。


貧しい者、弱い者の視座に立て・・・


そこからしか、信仰も愛も始まらないと・・・。
そうでなければ、み国も来ないと・・・


聖書は難解ですが、貧しい者、弱い者の視座に立って読んだとき、不思議と、謎だった聖書の箇所が、腑に落ちる事が多いです。


弱いものの視座に立つ(メタノイア)が聖書解釈の基本の様に感じています。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

上記が、私の納得している、この聖書箇所の解釈です。

皆様は如何でしょうか?

私は、又、色々な解釈を知りたいと思っています(^.^)


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