ルカ16章の不正を働いた管理人の話も、ラザロの話も、基本は全く同じ コメント7
先日、コメントで、ルカ16章の不正を働いた管理人の話題が出ました。
人により、又、教派により、解釈は色々なのだと思います。
この箇所の解釈で、今、私が1番納得している解釈をコメントの返信で書かせて頂きました。
今日は、それをコメントの返信内容をそのまま記事にさせて頂きますm(._.)m
是非お読み頂ければ有難いですm(._.)m
以下の通りです。
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ルカの16章8節について・・・。
以下は、私が今一番納得している解釈ですが・・・
ルカ16章は最後の章迄、お金や財産について書かれていますよね・・・。
それで、この8節ですが、お金持ちの主人と、貧しい管理人が出てきます。他にも、この主人に負債のある貧しい人達が出てきます。
お金持ちと貧しい者が出てくるわけですが、聖書の神様はいつも、貧しい者、弱いもの、小さくされている者に、目を留めていらっしゃいます。
お金持ちと貧しい者がいる・・・という、その事自体が、イエス様の言われる、み国ではない・・・という考え方です。
もっと思い切って言わせて貰えば、お金持ちは金銭や財産を一人で抱え込むな・・という考え方です。
一人で抱え込むのは、ある意味、貧しい者達から金銭を搾取していると、いえる場合もあります。
しかし、お金持ちは、なかなか自分から自分の財産を手放して貧しい者達とお金を平等に共有しようとは、なかなかしないものです。
そこで、このルカの16章8節の、貧しい管理人は、やはり主人に負債のある貧しい者達の負担を軽くする事で、自分も助かり、貧しい者達も助かるという対処法を考え、この行動に出ました。
凄いなぁ・・と思うのは、この対処の仕方に対して、このお金持ちの主人は、貧しい自分の管理人を誉めたということです。
この時代の宗教者(光の子)達よりも、良い感性を持っていると、貧しい管理人の事を誉めたというところが、ブラボー!です。
そして・・・
この16章の最後は、ラザロという、読んでいて胸の痛む貧しい者を出して話を締めくくります。
一番私達に解りやすい形の話で締めくくられます。
8節の管理人の話も、19節のラザロの話も、基本、言っている事は同じです。
貧しい者、弱い者の視座に立て・・・
そこからしか、信仰も愛も始まらないと・・・。
そうでなければ、み国も来ないと・・・
聖書は難解ですが、貧しい者、弱い者の視座に立って読んだとき、不思議と、謎だった聖書の箇所が、腑に落ちる事が多いです。
弱いものの視座に立つ(メタノイア)が聖書解釈の基本の様に感じています。
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上記が、私の納得している、この聖書箇所の解釈です。
皆様は如何でしょうか?
私は、又、色々な解釈を知りたいと思っています(^.^)
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