metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

義憤

恥を知らぬ者達が、堂々と
「義憤」を叫ぶ。

この怒りは「義」だからと
自分達の怒りに「義憤」という名を付ける。


「義憤」という言葉を使い人を裁く。

「義人」はいないと人を裁き自分が義になる。



「義」はある。
「義」は存在する。


義人はいないと言うおまえの「義」とは
なんなのだ?




義人はいないと裁く者達の義憤によって
小さき者達の声は掻き消される。





神の義を知る人はどこにいる





おまえなのか?
それともおまえなのか?



「義」に迷いながらも


私はただ
泣いているおまえのそばに居たい。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

詩や、散文というものに解説や注釈を付けるのは、とても野暮な気がして本来、私は好きではありません。
私は詩であれ、散文であれ、書いて人に公開した時点から、その詩や散文は自分の手から離れ、人のものとなると思っています。
受け手の感性が様々である様に、公開した詩や散文は、それぞれの感性によってその人のものになると思っています。

私の詩や散文を、どういう風に感じて下さったにせよ、私は、拙い私の詩や散文を読んで下さったという事がとても有り難く、感謝しています。


中には、私の言わんとしたい事と正反対の受け取り方をされていらっしゃる方もおられる事と思います。

あの遠藤周作さんでさえ、全く自分の言わんとする事と正反対の解釈がなされていると、仰有ったのですから、素人の詩ともいえない私の詩が、自分の思い通りの解釈をして貰えると思うのは厚かましい事だと思っています。


詩も絵も音楽も彫刻も踊りも・・・
産んで手放したその日から、人々のものになると私は思っています。



「義」については、私は私なりに思う事が沢山あります。
皆様も沢山おありの事と思います。
色々な聖書解釈がある数だけ、これが「義」だとする数も色々なのかも知れません。
とすると「義人」とは、その「義」とは・・・という所から、もう一度考え直さなければならないのではないかと私は思っています。
私は、今の時点で納得する解釈がありますが、将来又、求道する中で変わるかも知れません。
色んな話を聞き、読み、感じ、考える中で変わっていくかも知れません。
それで良いと自分で思っています。



拙い詩ですが、読んで頂けた事を嬉しく思います。
有難うございました。


それぞれの・・・
皆様の大切な感性のままに・・・(^.^)



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