ルターの「藁の書簡」に想う。
ルターの「藁の書簡」の話は、あまりにも有名で、皆様もよくご存知のことと思う。
例の、新約の「ヤコブの手紙」を、ルターが、
藁の様に燃やしてしまえばよいと言って聖書から外そうとした話である。
皆様は、ルターの「藁の書簡」の話を聞かれた時、どう感じられたのだろう・・。
もし・・あの時ルターが、思い直す事なく、又、説得される事なく、ヤコブの手紙を聖書から外していたならば、今現在プロテスタントの信者にとって、聖書は、66巻ではなく、65巻になっていたのである。
「信仰義認」を打ち出すにあたり、ヤコブの手紙は非常に厄介で困った書簡であったであろう。
又、ルターが「ヨハネの黙示録」も聖書から外そうとしていたという話も有名である。
もし、これが実現していたら、プロテスタント信者にとって、聖書は全64巻になっていたわけである。
聖書、聖書と言っても、この現実を目をそらさずに見れば、何とも頼り無い話である。
「聖書のみ」と言いながら、自分が聖書より上に立ってしまったルターにせよ・・・
「恐怖政治」を行ったカルヴァンにせよ・・・・
はっきりと、そして間違いなく言える事は、
彼らも「人」なのである。
私は、ルターに権威を感じない。
カルヴァンにも権威を感じない。
牧師の先生にも権威を感じない。
私は「人」の上に権威を感じない。
私は権威主義者ではない。
ルターの「藁の書簡」について思いを馳せながら、ふと・・・・・そう思った。
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