metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「良かったね、有難いね」と感じながら関わりたい 「良かったね、有難いね」と言って育てたい

人との関わりの中で、「有難いな」と感じる事は、日常的にあります。
皆様も、日常的に感じられていることと思います。


確かに、人を騙したり、陥れたり、他色々とんでもない人もいますが、大抵は「有難いな」と感じさせて貰える善良な人が殆んどの様に感じます。


過酷な状況の中でも、何とか心が荒まないでいる事が出来るのは、そういう有難い善良な人達のお陰ではないかと感じています。


そして、自分の事だけで無く、子供達に善良な人達が、何かを与えて下さった時、やはり私達は「有難いな」と感じ、「良かったね」と思い、嬉しさを感じます。


私は・・・
そんなふうに感じた時、そのままその気持ちを子供達に伝えたいと思っています。
「良かったね~(^.^) 有難いね」と・・・。


「感謝しなさい」・・・と、教えたり命令したりするのではなく・・・
ただ子供と一緒に「良かったね~(^.^)有難いね(^.^)本当に嬉しいね(^.^)」という自分の気持ちを共有しあうだけで充分だと思うのです。




例えば・・・一例として・・・


二人のクリスチャンホームの子供がいたとします、

学校の課外授業で、二人はお寺と神社に行きました。

そこで、二人のクリスチャンホームの子供はお寺や神社で参拝する事は偶像崇拝だからと、先生に、
「私はクリスチャンなので参拝はしません」
と、言ったとします。
そこで先生は「そうなのね。勿論、参拝しないでいいわよ、知らないでごめんなさいね」と、にこやかに優しく二人の子供達に言ったとします。


その後・・・


一人のクリスチャンホームの子供の親は、それを聞いて、子供に、「良く言った!偉かった!」と、言い子供を自慢に思い、周りのクリスチャンフレンドに子供の武勇伝として、その事を伝えました。
そして、親が自分を自慢していることを知った子供は、自分を誇らしく思ったとします。



そして、もう一人のクリスチャンホームの子供の親は、それを聞いて・・・・
「良かったね~(^.^) 先生、快く受け入れて下さったのね(^.^) 有難いわね。あなたの信仰の自由をちゃんと尊重して大切にして下さったのね。本当に有難いわね。嬉しいね(^.^)、でも謝られたなんて・・私が最初にちゃんと先生にお伝えしなかったのが、いけなかったのね・・申し訳無い事をしたわね・・・」
・・・・と、子供に自分の気持ちを伝えたとします。



もう、どちらの子供が感謝を自然に感じれる大人に成長するか、そして人を大切に思う気持ちが豊かになるかは、火を見るより明らかです。



善良な人との間柄で、「感謝」を感じる事が出来ない人は、神様に「感謝」は出来ないと、私は思っています。

何故なら、「感謝」という気持ちが、どういうものか、その人は知らないからです。

「感謝」という言葉だけ知っていて、本当は自然な実感としての「感謝」は知らないからです。




クリスチャンは「感謝、感謝」と言いながら、感謝出来ない人が多いと言われるのは、そのためではないかと思っています。




私は・・・・
自然で良いのだと思います。
自然にしていれば、ほっておいても人に対して、
「有難いな」という気持ちは湧いてきます。

そして・・・
「感謝しなさい」
「愛しなさい」
「喜びなさい」
・・・・と、言葉で子供に教え命令するよりも、


自分自身が、「有難い、嬉しい、あなたにも何かしたい」と思い感じた事を子供達に伝える・・・。


それだけで、人に感謝し、神様に感謝し、人を大切にし、神様を愛し、自然に喜びを感じれる子供に育つのだと思います。


せせこましい気持ちが子供達に伝染するように、

おおらかな気持ちも子供達に伝染するのだと、私は思います(^.^)



自戒を込めて気を付けたいと思います(^.^)




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愛が死ぬとき

「愛しなさい」
「感謝しなさい」
「喜びなさい」

これらの感情は、決して命令されたり、強制されたり、教えられたりする事で、生まれるものでは無いと、私は思っています。

「愛しなさい」も、「感謝しなさい」も、「喜びなさい」も、誰かに言われてするものではありません。


私は、これらの事を子供達に教えたり、命令したりしてはいけないと、思っています。


「愛さなければならない」・・・と、育てられた子供は、人を大切にするとは、どういう事なのか知らない子供に育ってしまいます。


「感謝しなければならない」・・・と、育てられた子供は、感謝の気持ちを知らない子供に育ってしまいます。


「喜ばなければならない」・・・と、育てられた子供は、喜ばなければいけないと思った時点で、すでに喜んでいないという逆説的な事が起こります。


人を大切にすること(愛する)事も、感謝する事も、喜ぶ事も、とても素敵で人を幸せにする感情です。



しかし・・・・
これらの気持ちは、教えたり命令したりする事で、死んでしまうという性質が孕んでいる事も、しっかりと認識しなければ、子供達を可哀想な道へ誘導してしまうことになりかねません。



「愛しなさい」「感謝しなさい」「喜びなさい」
と、言葉で教えられたり命令されたクリスチャンホームの子供達が、暗いのがとても気になります。

人を大切に出来なかったり、人に感謝するという気持ちが欠落していたり、暗い目をしている子供達を見て不憫に思う気持ちが、失礼は承知で抑える事が出来ません。





「愛」と「命令」は、両立しません。




そういう事について書かれている、
とても面白いホームページがあります。

東郷潤という方の「平和の絵本」というHP です。
絵本形式なので、楽しく読めます。
確かそのHP の中の「愛と命令」というタイトルだったと思います。
他にもキリスト教について書かれている書もあり、固く深い内容を分かりやすく書かれておられます。
ご興味のおありの方は是非、ご一読を・・・(^.^)



子供達の「愛」や「感謝」を育む助けをするには、他に方法があると私は、思っています。


教えたり命令したりするのではなく・・・


その事については、次回の記事で書かせて頂きたいと思っています(^.^)



自然に、愛や感謝を感じて、喜びと幸せの中を歩く子供達でいっぱいになりますように・・・



それでは皆様、おやすみなさいませ(^.^)
今日も、お読み下さり有難うございました♥m(._.)m


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罪人、罪人、罪人、なんて嫌な響きであろう。

罪人、罪人、罪人。
なんて嫌な響きであろうか。



エス様のあの時代。

身体の不自由な人が罪人と呼ばれ・・・
精神的な病に苦しむ人が罪人と呼ばれ・・・
貧しく供え者が出来ない者が罪人と呼ばれ・・・



罪人、罪人、罪人。
なんて嫌な響きであろう。


罪人、罪人、罪人。
あなた達は貧しさゆえ、罪人と呼ばれ、
どれだけ苦しかったであろうか。
どれだけ悲しかったであろうか。





世の中から罪人と呼ばれる者達を、
「地の塩、世の光」と呼ばれた、あなた。


二千年以上の時を経て、
昔、罪人と呼ばれた者達は
今、「軽蔑」という名のもとに、やはり虐げられている。侮られている。


あなたが「地の塩、世の光」と呼んだ人達は
罪人という名から「軽蔑される者」という名に変わり、義人を気取る者達から侮られている。


義人達が、自分達は罪人だと誇り、「軽蔑される者達」を虐げている。



義人はひとりもいない。
義人はひとりもいない。



あなたが、弱き者達を罪人扱いする者達へ、送った戒め。



罪人を誇る私達は、あなたが言われた
「地の塩、世の光」ではない。



今の時代の罪人達よ。
貧しさゆえ、身体が不自由であるがゆえ、精神的な病ゆえ、侮られ、虐げられている者達よ。



誰も言わぬなら、私が言おう。



あなた達は、
地の塩、世の光。



私達はあなたに学ぶ。
ヨハネが指さされた、あなたに学ぶ。



あなた達は、
地の塩、世の光。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

私は、人は皆、罪人であるという事を否定しているわけではありません。
ただ、「私は罪人です」と、たいして罪の意識も無いままに、言葉だけ振りかざしてしまう事で、どれ程、社会的に弱い人達を、気付かぬまま虐げているかという事を考えたいと思うのです。
エス様の時代に罪人と呼ばれた人達が・・・
今の時代に罪人から軽蔑という名に変わり、虐げられている人達が、泣くことの無い日が来てほしいと願っています。
後の者が先になる世の中で有って欲しいと祈ります

あなたのうえにも、私のうえにも、
そして・・軽蔑され泣いている人達のうえにも、

祝福がありますように・・・

み国がきますように・・・・


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

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私達は泣き寝入りしません

先日、仕事の帰りにコンビニエンスストアに寄ったのですが・・・・

いつもの如く、ポォ~っと商品を見ていると・・・

「立ち上がれ!」と、いう文字と、
「私達は泣き寝入りしません!」と、いう文字が
目に飛び込んできました。

何だろう?と近くに寄って見てみたら・・・
可愛いイラストの入った「ワッペン」でした。


「立ち上がれ!」の文字と一緒に、
「痴漢は犯罪です‼」の文字。

「私達は泣き寝入りしません!」の文字と一緒に、
「恥を知れ!」の文字。



はい。
痴漢に立ち向かう為の「ワッペン」でした。

5種類程のデザインがあり、女子学生も、制服に着けても違和感の無さそうな可愛いワッペンでした。




よくぞ作って下さいました!
ナイスです!
グッドアイデア商品です!


その通りでございます!!


痴漢は犯罪です。
私達は泣き寝入りしません。
立ち上がれ!
恥を知れ!


全くその通りでございます!



同様に・・・
大なり小なりカルト化した教会の大人達よ・・


虐待は犯罪です!
子供に暴力をふるうのは犯罪です!
子供に食事を与えないのは犯罪です!
子供に精神的暴力をふるうのも犯罪です!



子供達よ立ち上がれ!

子供達よ泣き寝入りはしないで!

あなたの仲間の大人は側にいるよ。


そして・・・
虐待する大人達よ、恥を知れ!



痴漢は犯罪です!
虐待は犯罪です!



女子学生達よ、子供達よ、
立ち上がれ!



私達は泣き寝入りしません!



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コイノイア(穢れをともにする)・シャローム・そしてメタノイア コメント2

今、辛い人は沢山います。
昔も、辛い人は沢山いました。


自分が幸せな時・・・
自分の幸せに、何か後ろめたさを感じてしまうのは私だけでしょうか?


笑いながら、そして楽しみながら、どこかで申し訳なさを感じてしまうのは私だけでしょうか?




コイノイア・・・
この言葉が、クリスチャン同士の交わりや信仰的な交わりを意味するのでは無く「穢れ(汚れ)をも共にする」という意味だと知った時、私はホッとしました。

共にする・・と、いうのは、
違う立場や、結構な立場から、苦しんでいる人に関わるのでは無く、自分も同じ立場、立ち位置で関わる・・という事なのだと・・・。
それが「コイノイア」の正確な意味なのだと・・・。

私は、この事を教えて頂いた時、
とても納得が出来、共感しました。




そして、シャローム

ただの平和とか平安という意味で無く、シャロームとは「傷付いたところがひとつも無い」という意味なのだと・・・。
なので、100人のうち、99人が幸せでも、1人が泣いていたら、もうそれはシャローム(平和)では無いのだと・・・・。

こちらも、とても納得と共感が出来ました。




これらの事は、「愛という言葉が一度も出てこない聖書」の記事でも紹介させて頂きましたが、その、愛という言葉を一度も使わないで聖書を翻訳された方から教えて頂きました。


この事を教えて下さった聖職者の方は、新共同訳聖書の翻訳メンバーであり、一流の聖書学者でもいらっしゃいます。

ギリシャ語、ヘブライ語も、辞書を引き引きという訳でもなく、そらでポンポンと出て来られる底力と、実力には静かな迫力があり、内容も学説的な事を平たく解かりやすく教えて下さる為、素人でも理解しやすく、とても有難いです。


なので・・・
私が、コイノイアやシャロームについて、お話させて頂くより、この方の書物を読んで頂いた方が分かりやすく確かです。



そして・・・メタノイア。

悔い改めと訳されているメタノイアについては、全く、既定の教えとは異なる事を教えて下さいます。
言語に忠実にしっかりと・・・
方向転換とは、神を信じるということでも、今迄の神を知らない状態から神様第一に方向転換するという事でも無いということを、これくらい聖書の原語に忠実な教えは無いくらい聖書的に、そして言語に忠実に解りやすく教えて下さいます。





そして・・・
私は思うのです。


「教会に来なさい」・・・と、言うよりも、

「いつも喜んでいなさい」・・・と、言うよりも、

「伝導しなさい」・・・と、言うよりも、

「神に感謝しなさい」・・・と、言うよりも、

「従いなさい」・・・と、言うよりも、

「祈りなさい」・・・と、言うよりも、 

「~しなければならない」と、言うよりも、

「そうしなければ救われない」と、言うよりも、



泣いている人に、苦しんでいる人に、動けない人に、休養が出来ず心も身体もボロボロになった人に、泥の中でもがき苦しんでいる人に、


クール宅急便で、おかずを送る方が・・・
タクシーを使う事で出費しない様に、車を出す方が・・・
ただ、お話を聞かせて頂く方が・・・


ずっと、ずっと、ずっと大切だと
私は思うのです。

それも、絶対にそれが相手の負担にならない様にデリカシーを忘れずに・・・・




幸せぼけしてしまった状態では、泥の中で苦しんでいる人の存在にさえ気が付かないと思うのです。


自分が、泥の中にいる人を前に、何も出来る事がなく、オロオロするだけの無力な者であったとしても、せめて口で信仰を語る者ではなく、ただただ、泥の中にいる人の心に静かに寄り添わせて貰いたいと思うのです。
何も出来なくても・・・。



ひとりぼっちで、全てを抱え込まなくてはならない苦しさは、私も知っています。
知っていらっしゃる方は多いと思います。
それは・・・
本当に、本当に辛い事です。


幸せな時、幸せ幸せと、幸せぼけしている間は、
エス様の立ち位置には、自分はいないのだという事を忘れずにいたいと、私は思っています。




愛という言葉を一度も使わないで聖書を訳された方の本や勉強会は、そういう事が基本の内容であり講義です。

月1回のペースで神戸バイブルセンターにて、講義もなさっています。
牧師の先生も一緒に、お勉強とヘルプもなさっていたりします。
もし、ご興味がおありでしたら、是非お運び下さいませ。
カトリックの方もプロテスタントの方も、教派を問わず、お勉強にいらっしゃっていますので、安心して行けるのが有難いです。




最後にコリントの聖句から・・・


「それゆえ、信仰と、希望と、愛(人を大切にする)は、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛(人を大切にすること)である」
 コリント1・13:13





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キリスト者であるならば・・・

キリスト者であるならば・・・
せめて自分が、弱き者を抑圧する者にだけは、ならぬようにと願う。



キリスト者であるならば・・・
せめて自分が、弱き者から目をそむける者だけには、ならぬようにと願う。



キリスト者であるならば・・・
せめて自分が、弱き者を笑う者にだけはならぬようにと願う。



キリスト者であるならば・・・
せめて自分が、弱き者を蔑む者にだけはならぬようにと願う。




キリスト者であるならば・・・・・


せめて、
みるべき姿がなく、威厳もなく、したうべき美しさもない、人に捨てられ、悲しみの人で、病を知る者。そして顔をおおって忌みきらわれ、侮られ、誰も尊ばぬ者の声に・・・・

そういう者達の声に、耳を澄まして傾けることの出来る者でありたいと願う。


せめて、そういう者でありたいと願う。



私は・・・
私は本当に大丈夫であろうか・・・。


それでも、せめて、そういう者でありたいと・・


私は強く願う。




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平気で無視される「被介護者」の人権

「被介護者」の人権は、時に平気で無視される。

あちらこちらで・・・
病院で、ショートステイ先で、近所で、自宅で、
時に無視される。

無視する方は、自分でも気が付かずに無視をする。


ドクターに、看護士に人権を無視されるだけでもたまらないのに、時に、介護者に人権を無視される。



少し考えて頂きたい。
私からのお願いであるm(._.)mm(._.)m


ドクターのあなたに考えて頂きたい。
看護士のあなたに考えて頂きたい。
介護者のあなたに考えて頂きたい。


もし、もし介護をしている目の前の人が被介護者でなかったとしたら・・・
あなたは、その人の許可なく、その行動をとったであろうか?
あなたは、その人の許可なく、それを言ったであろうか?
目の前の被介護者が被介護者でなかったとしたら、あなたの行動、言った事に対して、その人はどういう気持ちになられるのか考えた事が、あなたはあるだろうか?


是非、考えて頂きたい。


それが、人が人の尊厳を大切にするという事だと私は思っている。


介護者のあなたが、もし逆の立場であったなら・・
あなたは、自分が言った事を平気で介護者から言われたり、周りに言われて本当に耐えられるだろうか?


人の尊厳を守るという事を、今一度考えて頂きたい



介護の大変さも分からない者が言っている・・と思われるかも知れないが、それは違う。

あまり、プライバシーについて書きたくないが、私は今迄の人生の3分の2を、介護者として生きている。

学生時代から介護者として生きている。
家族の一人を見送り、又すぐに次の介護という感じである。


そういう人は沢山いるであろう。


要介護4・5と言えば、どういう状態か説明せずともわかって頂けることと思う。



しかし、それが原因で、私が不幸だった事は一度もない。

数えきれない幸せと喜びを、被介護者である家族も、介護者である私も、お互い交わしあっている。

そして、喧嘩もする。
大喧嘩も出来る。

どちらかの、心か身体が、いっぱいいっぱいになった時に喧嘩になる。


私はそれで良いと思っている。


どんなに喧嘩しても、お互い「かけがえのない相手」である事には変わり無い。

たとえ、相手の認知機能が落ちていても・・・
である。



喧嘩をしても、感情的になっても、それは被介護者の人権を「無視」した事にはならない。
「疲れ果てて限界に来たこと」と「人権を無視する事」とは違う。
「疲れ果てて限界に来た人」の心には「痛み」がある。



被介護者の人権を無視する者は、「平気で」無視をする。
そこには、無視した事についての「痛み」も何もない。
「痛み」も何もないから被介護者の人権を無視している事にも気が付かない。


荒い神経は、被介護者の魂をズタズタに傷付ける。


被介護者も介護者も、同じ人間である。
あなたと「同じ」人間である。

介護者のあなたがされて嫌な事は、
被介護者も嫌なのである。




介護者も被介護者も全く同じ人間である。

あなたと全く同じである。



もう一度、この事について考えて頂けたら有難い。



被介護者のことが、たまらなく愛しい、私からのお願いである。



追伸:個人名を出せない為、敢えて便宜上、「被介護者」「介護者」「要介護」という一般的な言葉を使いました。もし、この言葉に不快感をお持ちになられた方がいらっしゃいましたら、深くお詫び申し上げますm(._.)m
便宜上使いましたが、私の中では、どの方も個人名の感覚であることを付け加えさせて頂きます、



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