悪口、批判、抗議・・・そして怒り
悪口と批判は違う。
悪口と抗議も違う。
私は、悪口は良くないが、批判、抗議は大いにあって構わないと思っている。
しかし、一部の権威主義的教会では、批判、抗議はあってはならないという空気がある。
それも・・・
批判を悪口とし、抗議も悪口とするという詭弁が行われている。
批判・抗議を、「不平を言わず」とか「つぶやかず」という、すり替えも行われていたりする。
しかし、それは違うと私は思う。
「不平を言わず」も「つぶやかず」も、あくまで、キリストにあって・・神にあって・・という条件がつく。
決して、権威者(人による)にあって・・・ではない
もし、批判、抗議が駄目だとするなら、イエス様がされた事も駄目だという事になってしまう。
聖書の中でイエス様は、ファリサイ派、律法主義者に対して、痛烈な批判と抗議をされている。
権威主義的な教会の権威者の言う事が、イエス様によって・・・ではないと判断したなら、大いに批判・抗議があって良いと私は思っている。
批判・抗議する者が神では無い様に、権威主義的教会の権威者も神ではない。
批判と抗議を出し、お互い再検討してみれば良い話ではないかと私は思っている。
批判する者、抗議する者の口を塞いでは決していけない。
批判する者、抗議する者を十字架にかけては決していけない・・・と、私は思う。
・・・そして、怒り。
聖書の中でイエス様は、沢山怒っていらっしゃる。
時には、とてもお派手に怒りを示されていらっしゃる(^^;
そして・・・そのイエス様の怒りには一貫性がある。
イエス様は「弱い者いじめ」に対して怒っていらっしゃるという一貫性がある。
「弱い者いじめ」・・・というと、キリスト教の歴史は、この弱い者いじめを繰り返してきた。
教派を問わず繰り返してきた。
これに関しては、皆様もご存知の様に、歴史を見れば明らかなのは言わずもながである。
しかし・・・
今、現在も、この「弱い者いじめ」は行われている。・・と、私は思う。
そして、その「弱い者いじめ」に対して警告を鳴らし、戦っていらっしゃる、神父様や、牧師の先生もいらっしゃる。
私が参加しているブログ村の中にもいらっしゃる。
大変な勇気でらっしゃると思う。
私のように、思う事をタラタラ書いているのとわけが違う(-""-;)
立場上、大変な事でらっしゃるのだろうなと思うと同時に、そこに踏み込まれた勇気に対して敬服の外はない。
聖書には、色々な形の弱い者いじめのパターンが、ちりばめられている。
弱い者いじめとは何なのか・・が具体的に書かれている。
そして・・・
いちばん厄介な「弱い者いじめ」が、
いじめている方が、いじめという自覚無しにしている弱い者いじめである。
時には、相手に良かれと思ってしている事が、結果的に弱い者いじめになっていたりする事がある。
神の名によっての弱い者いじめもされていたりする。
いったい、何が弱い者いじめなのか・・・。
自分は本当に弱い者いじめをしていないのか・・
私はもう一度、自戒をもって振り返り、
自分を見つめ直したい。
・・・と、思う今日この頃である。
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お詫びm(._.)mm(._.)m
前々記事ですが、パソコン操作を誤り、2度同じ記事を掲載してしまいましたm(._.)mm(._.)m
前々記事は内容を消去し、前記事【山上の垂訓「アシュレー」あるがままでOK!で良かった(^.^)】に、掲載致しました。
申し訳ございませんでしたm(._.)mm(._.)m
山上の垂訓の「アシュレー」あるがままでOKで良かった(^.^)
~でなければならない。
~で、あらなければならない。
~のようでなければならない。
・・・・・苦手である。
・・・・・無理である。
私は私でしかない。
私は私以外の何者のようにもなれないし・・・
実は・・・不遜かも知れないが、私は私以外の何者のようにもなる気はなかったりする(^^;
皆様は、どうなのであろうか?・・・。
そんな私にとって、イエス様の山上の垂訓の箇所は、大きな励みになる。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
(心)の貧しい人々は幸いである・・・
悲しむ人は幸いである・・・
・・・・
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
「幸い」と訳された、「アシュレー」というヘブライ語。
直訳すれば、「そのものがあるがままにある」とか、「そのままで・・・」という意味だという事は、皆様も良くご存知の箇所なのだが・・・
何故、「幸い」とか「祝福」とかに翻訳家の方々は訳されてしまったのだろう・・・と思うと同時に、余りに親切過ぎる訳の為、言葉の真意が余計に伝わり辛くなってるかも知れないと、素人考えの傲慢さで、僭越な疑問を感じたりもする。
どちらにしても、翻訳をされた方々の心を砕かれたお仕事の苦労と労力には頭が下がる。
大変なお仕事でらっしゃるのだろうと思う。
さて・・・・
「アシュレー」:あるがまま・そのままで・・・
なら・・・。
私にピッタリ!である。
(心)貧しい私。
悲しむ私。
義に飢え渇く私?(^^;(^^;。
あるがままで、・・・というなら、
私の場合・・。
貧しい私は、ひたすら豊かになりたいし、強くそれを望む。そして、その為に出来る事があるなら、あるがままの私の感性でもって突き進む。
悲しむ私は、悲しみから少しでも癒されたい。
あるがままの悲しみの中で慰められるなら有難い。
不義な状態に置かれていることを納得出来ない私は、(義に飢え渇く)、ありのままの私が不義だと思う事には、堂々と不義だと訴える。
弱い時の自分を、あるがままで受け入れて・・・
そこから思う事を全てあるがままに受け入れて・・
そこから、しようと思う事に対して、安心して突き進んで・・・
全て、全てを受け入れる。
安心して受け入れる。
力が無いから力が欲しいと受け入れて突き進む。
豊かで無いから豊かさを堂々と求める。
不当に扱う人に対しては、しっかり不当だと伝える
それが私の、あるがまま。
貴方が弱い状態に置かれているなら、あるがままの貴方の感性で突き進め、それで大丈夫だと言われるイエス様の言葉。
とても、心強い。
「アシュレー」・・・。
好きな言葉である。
ありのままでいたいと思う。
そして、私は・・・
今、弱い立場で泣いている、
ありのままの貴方のことが・・・
ありのまま戦っている貴方のことが・・・
大好きです。
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聖書に加筆ってアリなの?加筆されているルカの福音書(ToT) コメント2
何をもって「聖書」というのだろうか・・・と、考えてしまう。
例によって私らしくポケ~っと聖書を読んでいたら、ルカ23:34のところに来た。
【そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」】・・・(新共同訳)
の聖句。有名な聖句である。
気になるのは【】の鍵かっこである。
何だろう?・・・と、調べてみたら、
「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所を示す。・・・」と、最初の方のページに説明が書いてあった。
ウ・ウソ(^^;
加筆アリなのでしょうか(^^;
誰が重要と決めて加筆したのでしょうか(^^;(^^;
気になると、とことん気になってしまう困った性格なので少し調べてみたら・・・
パピルス写本に、ハッキリとわかる形で上記の聖句
が後から書き加えられているそうである。
4世紀頃だそうで、何かと曰く付きの4世紀だそうである。
ルカさんが書かれたとされているものに、何処かの誰かさんが書き加えたようである。
ん~・・・・と、正直に思う。
パピルス写本に書き加えが無い物を、聖書として納得するか、後代に書き加えられた物を聖書として納得するかは、人それぞれで自由であると思う。
ただ、私としては正直、書き加えはして欲しくなかった。
ルカさんの書かれたままがよかった。
皆様は如何思われるだろうか?
「エリ エリ レマ サバクタニ」
・・・これだけでよかった。
私にとって、これ以上に苦しく優しい祈りはない。
イエス様の、この叫び・・・。
私達にとって究極の救いであると同時に、信仰者にとって、辛く悲しく痛すぎる救いである。
どちらにしても・・・
私は、加筆無し!
・・に一票である。(^^;
皆様は❓・・・
どちらに一票でしょうか(^.^)
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嫌われないように・・・
私は
嫌われないように頑張った。
来る日も来る日も頑張った。
おかげで私は、みんなから好かれた。
けれど・・・私は死んでしまった。
あの娘は
嫌われても構わないと頑張った。
来る日も来る日も頑張った。
そのせいであの娘は、みんなから嫌われた。
けれど・・・あの娘は生きて輝いていた。
嫌われないように・・・
来る日も来る日も頑張った。
頑張って頑張って
ある日・・・私は私が見えなくなった。
嫌われないように、嫌われないように・・・
とうとう私は
泡のように消えて無くなった。
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毎日曜日に教会に行ける人が羨ましい
やっと来た。
やっと二人で来れた。
二人で杖を付きながらやっと来た。
痛む身体を引き摺りながらだけれど・・・
それでもやっと来れた。
人が1時間で来れる、この場所も・・・
私達には3時間。
でも来れた。
前の晩から覚悟して・・・
夜が明けぬうちに起きて、仕度をする。
ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと・・・
とうとう来れた!
ずっと来たかった。
ずっとずっと来たかった。
ここに来れなくても、イエス様はいつもともにいて下さると・・・・
分かってはいても、この場所に来たかった。
半分諦めかけていたけれど、
本当に来れた。
二人で来れた。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
毎週、日曜日に行ける人には、解らないこの喜び。
私達は今日来れた。
だから、今日来たくても、来れない人の分まで、
祈ろう。
私達が安らぐ、この空間。
私達が来たくても来れなかったこの場所。
教会。
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イエス様の「ぶどうの木」を見てみたい
私はイエス様が、ご自分を例えておっしゃった、
「ぶどうの木」を、見てみたい。
物凄く見たい。
私は、この例えを初めて聞いた時、自分よりも背の高い美しいぶどうの木と、その木に実った美味しそうな葡萄を想像し、ロマンチックな気分に浸るという、まことに、おマヌケな想像の世界で遊んでいた。
まさか・・・
ま・まさか、イエス様のおっしゃった「ぶどうの木」というのが、その時代、パレスチナ地方で、
最も小さい、背丈の低い木だったとは( ゚□゚)!!
それも、どれくらい低いかと言えば・・・
自分の膝丈か、腰丈くらいの丈の木だったとは!!
し・しらなかった。
本当に知らなかった。
と・・・・いう事は・・・
「わたしは、ほんとうのぶどうの木」と、イエス様がおっしゃったぶどうの木は、身をかがめて見る様な、ぶどうの木・・という事である。
その時代の人達は、イエス様が、
「わたしはほんとうのぶどうの木」と、おっしゃった時、身をかがめて見るぶどうの木を想像したということである。
私は、イエス様のおっしゃっる、ぶどうの木が、
パレスチナ地方で一番丈が低く、身をかがめて見る木だと知った時・・・・
そして、イエス様がその木をご自分に例えられたのだと知った時・・・又、イエス様のことが好きになった。
そして・・・やはり痛かった。
イエス様は人としてお生まれになられた時、丈の低い者としてお生まれになられたのだと・・・
しかし・・・
その時代に丈の低い者として生まれた者達。
病気や苦しみをかかえる者、身体に麻痺のある者、
悪霊に憑かれた者、貧し過ぎる者。
それ故に、穢れを担う者とされていた人達、にとって、イエス様のこの、「わたしはほんとうのぶどうの木・・・」の例え話は、どれほどの希望であったであろうか、とれほどの救いであったであろうか、と思う。
今の時代でも、苦しみの中に置かれている者達にとって・・
丈の低い状態に置かれている者達にとって・・・
この丈の低いぶどうの木の例え話は、大きな希望であり、救いである。
この丈の低い場所で・・・
この苦しみのある場所で・・・
同じ場所に置かれている者として、イエス様は、大丈夫だ。わたしと繋がっていれば大丈夫だ・・・と言って下さる。
大丈夫だ。
大丈夫だ。
めげずに生きようと思う。
イエス様がおっしゃっている。
わたしと繋がっていれば大丈夫だ。
今の時代でも、パレスチナに行けば見れるのかどうなのか分からないけれど・・・
丈の低いぶどうの木を、私は見てみたい。
腰をかがめて見てみたい。
私は、一番背丈が低いという、小さな小さなぶどうの木が、とても愛しい。
見ることが出来るなら・・・
その、ぶどうの木に、私は身をかがめて、
口づけをしたい。
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