metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

母の日 すべてのマルセリーノへ

マルセリーノ マルセリーノ
小さな小さな男の子


マルセリーノ マルセリーノ
産まれた時から、パパもママも知らない男の子


マルセリーノ マルセリーノ
笑顔の可愛い いたずらっこの男の子





「ママにあいたいな・・・」
うん・・・あいたいね・・


「ママにあいたい・・・」
・・・・・・・・・





マルセリーノ マルセリーノ
昨日は、母の日だったね


マルセリーノ マルセリーノ
とても静かな1日だったね


マルセリーノ マルセリーノ
もうすぐ 朝だよ


マルセリーノ マルセリーノ
そとの青葉が とてもきれいだね




ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして応援して頂けると励みになります(*^^*)

         にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

バイバイ

なんでもかんでも、あなたに黙ってついていくはずないじゃない。

私がついて行きたいのはイエス様だけよ。
だってイエス様は黙ってついてこいなんて言わないもの。




なんでもかんでも、あなたの言うことにハイハイ
言うはずないじゃない。

私がハイハイと言いたいのはイエス様だけよ。
だってイエス様はハイもイイエもOKだもの。




なんで私を、自分の思い通りにしたがるの?




おあいにくさま、
私は誰の思い通りにもならないの。



可愛くない?
可愛い女の子が好みなのね。



じゃあ、さようなら。




あなたは、とてもイケてるかも知れないけれど、

エス様はもっともっとイケてるの。


断然、私の好みのタイプなの。


 
だから・・・

バイバイ。




ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして応援して頂けると励みになります(*^^*)

     にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

自分の信仰を押し付ける人達

「断定」に弱い人は結構多い。
特に苦しみの中におり、迷いの中にいる状況の時、人は「断定」してくれる人にすがりやすい。

「断定」する人も、余程の自信があって断定するの
であろう。




「断定」する人には、2つのタイプがあるように私は感じている。

ひとつめのタイプは・・・
「断定」した表現をした後、「・・・と、私は思う」又は「・・・・と私は信じる」という姿勢がある人。

もうひとつのタイプは・・・・
「断定」した後、「・・・・と、私は思う」という姿勢が全く無く、人に自分の考えを押し付ける人である。



「・・・・と、私は思う」という姿勢がある人は他者との関係において、尊重がある。
しかし、「・・・と、私は思う」という姿勢が無く押し付ける人は、他者との関係において、尊重は無い。と私は感じる。


そして「・・・と、私は思う」という姿勢が無い人は、次第に自分が神になり、他者に自分の考えを強要し「力づく」という形の押し付けをしだす。
じわじわと、独裁が始まる。

やがて、その人の周りにはイエスマンしか居なくなる。



教会の中においても、こういう事は比較的起こりやすいのではないかと私は感じている。
カルトと言われる教会だけでなく、「正統な」と看板を掲げる教会であっても、程度の差はあれ、起こっている現象だと私は感じている。


そして、それは時に、聖書の言葉を用いての押し付けであったりする。


私はこれ以上の偶像崇拝は無いのでないかとは思っている。




相手が聖職者という立場にいる人であれ、古い信者の方であれ、新しい信者の方であれ、「・・・と、私は思う」という姿勢が無く、押し付ける人を、私は信じない。

そういう人達は、自分の思い通りに人を動かしたがる人達だと・・・
人を支配したがる人達だと私は思っている。


教会の中において、役割やルールはあっても、支配する人と支配される人が、あってはならないと私は思っている。


苦しんで迷いの中にいる時、「断定」の後に、「・・と、私は思う」という姿勢のある人は、苦しんでいる人にとっては、心許ないかも知れない。
ある意味それは、自責を尊重するからである。

「・・・と、私は思う」という姿勢が無く押し付ける人に、ついていく方が、楽かも知れない。
それはある意味、他責であるという事につながる。
他責であるから、その時は楽であろう。


しかし・・・
「・・・と、思う」という姿勢の無い押し付ける人というのは、案外、他責主義で、自分の断定した言葉に責任を持たなかったりする。


自分が他責主義だと、弱っている時、他責主義者の言葉に頼ってしまいがちになる。
しかしそれは、結果、後で泣くことになる場合が多々あったりする。


弱っている時こそ、「断定」の後に「・・・と、私は思う」という姿勢が無く押し付ける人には、気を付けたいものである。



私は個人的にファッショは嫌いである。


私は、教会にファッショの風が吹いて欲しくないと
と・・・願う者のひとりである。



自分が、何をどう感じ、どう思うかは、全く個々自由であるが、それを人に押し付ける事だけはお互い控えたいものである。




最後に蛇足ですが、文章の断定というのは、表現の方法であり、押し付けかどうかは、行間を読めばわかる事は言わずもながです。
勿論、その際、受け手の読解力、及び感性と、書き手の表現力に頼る所が大い事は、言うまでもありません。ホント・・蛇足ですね (^^; 
失礼致しました(^^;


ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして応援して頂ければ励みになります(*^^*)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

義憤

恥を知らぬ者達が、堂々と
「義憤」を叫ぶ。

この怒りは「義」だからと
自分達の怒りに「義憤」という名を付ける。


「義憤」という言葉を使い人を裁く。

「義人」はいないと人を裁き自分が義になる。



「義」はある。
「義」は存在する。


義人はいないと言うおまえの「義」とは
なんなのだ?




義人はいないと裁く者達の義憤によって
小さき者達の声は掻き消される。





神の義を知る人はどこにいる





おまえなのか?
それともおまえなのか?



「義」に迷いながらも


私はただ
泣いているおまえのそばに居たい。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

詩や、散文というものに解説や注釈を付けるのは、とても野暮な気がして本来、私は好きではありません。
私は詩であれ、散文であれ、書いて人に公開した時点から、その詩や散文は自分の手から離れ、人のものとなると思っています。
受け手の感性が様々である様に、公開した詩や散文は、それぞれの感性によってその人のものになると思っています。

私の詩や散文を、どういう風に感じて下さったにせよ、私は、拙い私の詩や散文を読んで下さったという事がとても有り難く、感謝しています。


中には、私の言わんとしたい事と正反対の受け取り方をされていらっしゃる方もおられる事と思います。

あの遠藤周作さんでさえ、全く自分の言わんとする事と正反対の解釈がなされていると、仰有ったのですから、素人の詩ともいえない私の詩が、自分の思い通りの解釈をして貰えると思うのは厚かましい事だと思っています。


詩も絵も音楽も彫刻も踊りも・・・
産んで手放したその日から、人々のものになると私は思っています。



「義」については、私は私なりに思う事が沢山あります。
皆様も沢山おありの事と思います。
色々な聖書解釈がある数だけ、これが「義」だとする数も色々なのかも知れません。
とすると「義人」とは、その「義」とは・・・という所から、もう一度考え直さなければならないのではないかと私は思っています。
私は、今の時点で納得する解釈がありますが、将来又、求道する中で変わるかも知れません。
色んな話を聞き、読み、感じ、考える中で変わっていくかも知れません。
それで良いと自分で思っています。



拙い詩ですが、読んで頂けた事を嬉しく思います。
有難うございました。


それぞれの・・・
皆様の大切な感性のままに・・・(^.^)



ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして応援して頂ければ励みになります(*^^*)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

女性という立場

私は、女性という立場は、男性に比べ、非常に弱い立場にあると思っています。

そこそこ平穏な状況にある時は、「そんな事は無い。女性の方が強い」と、言われたり思われたりするかも知れません。

しかし、切羽つまった状況下に置かれると、やはり女性は色々ハンディキャップが多いと言わざるを得ない現実に晒されてしまうのも事実かと思います。


例えば・・・

キリスト教のブログなので、宗教を例にさせて頂きます。


親には、自分の宗教を子供に勧める自由が保証されています。
又、子供はその勧めに対して賛同する自由も、拒否し、その事を表現する自由も保証されています。

もし、子供が親の宗教を自分も信仰する事を拒否したとします。
そして、子供が拒否した事を理由に・・・
「家を出ていけ」「食わしてやらないぞ」又は暴力を子供に加えたとします。
その際、子供は児童相談所に駆け込む事が出来ます。
そして、親の宗教を信仰しなくても、衣食住は与えられます。
所謂「子供の権利」が守られます。
女児も男児も守られます。

しかし・・・これは未成年迄です。



では18才以上で、同じ状況になった場合はどうなるか・・・


「家の宗教をおまえも信仰しないなら食わしてやらないぞ」・・・と、親が言ったとします。
18才になっていますから、女性も男性もアルバイトでも何でもして、何とか自分の食い扶持位は確保する事が出来ます。


次に、
「家の宗教をおまえも信仰しないなら出ていけ」・・↓と、親が言ったとします。
18才以上にになっていますから、時間はかかっても家を出る準備が出来ます。
シェアハウスという手もあります。
出て行く迄の我慢です。
出て行けば女性も男性も自由になれます。


最後に・・・
「家の宗教をおまえも信仰しないならこうだぞ!」・・・と、男親が暴力に出たとします。
18才以上の男性なら、男親に負けない腕力を身に付ける事が可能です。
不思議なもので、その子が男親以上の腕力を身に付けた時、その男親は暴力を奮わなくなります。
又、「家の宗教をおまえも信仰しろ‼」とも言わなくなります。

けれど・・・
18才以上になっても、女性は男親以上の腕力を身に付ける事は殆んど不可能です。
腕力では、どうしても敵いません。

女性保護施設も、旦那からのDVから女性を守ってくれても、男親からのDVは余程で無い限り、親子喧嘩、という扱いになりやすいです。
親からの暴力を専門の弁護士に相談するのが一番良いかと思いますが、何かと入り用です。

男性に比べ、どうしてもハンディキャップを背負った現実に晒されます。


これは一例ですが、最終、男性の暴力というものに対して、女性はどうしても無力です。



私は10年程前にクリスチャンホームの児童から、切羽つまったSOSを受けました。
プライバシーの問題もあるので余り詳しく書けませんが・・・
自分でもわけのわからないまま、その子のSOSに応え、気が付くと、その子に食べさせ、話をただ聞き、言葉を教え、自分で食べていける力と・・そして腕力とを身に付けさせていました。
意図してそうした訳ではなく、ただその子のでSOSに応えていたら、結果そうしていたという感じです。壮絶な10年間でした。気が付くと巻き込まれていたという感があります。
(その間、親御さんのご意志を無視していたわけでは決してありませんが詳しくは書けません)


キリスト教のブログで、この様な事を書くのも恐縮した思いもあるのですが・・・・

力を付けたその子は成人になり、教会を離れました。
しかし今では、親の暴力に怯えることもなく、フラッシュバッグに悩むこともなく、コミュニティ障害に苦しむ事も、感情喪失になることもなく、自分で考え、自分の意志で行動し、責任も持ち、私に頼ることなく自立して楽しく生きています。
時には私が頼る程に迄なりました。



しかし、これはその子が男の子だったからかも知れません。
女の子だったなら、障害はもっとあったのではないだろうか・・と思っています。


エス様が、女性に優しかったのが、とてもわかる様な気がします。


私は、キリスト教であれ、他の信仰であれ、「脅し」をする宗教は、それだけで禍々しいものを感じます。


力でねじ伏せる。



本来、イエス様か一番お嫌いになったことだと、私は思います。



家庭レベルであれ、国レベルであれ、もう2度と同じ間違いをおかしてはならないと・・・


私は、強く強く願います。



ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして応援して頂ければ励みになります(*^^*)
         
          
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

声なき者達の唄

おまえの目を塞いだのは誰なんだ。

おまえの耳を塞いだのは誰なんだ。

おまえの口を塞いだのは誰なんだ。


塞がれた目で歩くおまえ。
外が見たいと泣いても塞ぐその手にはいっそう力が入る。

無念であったろう。
やるせなかったであろう。



塞がれた耳のままうずくまるおまえ。
「私の言葉以外は聞かなくてよい」と言われ、何も聞けなかったおまえ。
貴方以外の声を聞きたいと泣いても、その塞ぐ手にはいっそう力が入る。

哀しかったであろう。
心許なかったであろう。



塞がれた口のまま立ち尽くすおまえ。
溢れる想いを口に出したいと泣いても、その塞ぐ手にはいっそう力が入る。

悔しかったであろう。
震えが止まらなかったであろう。




拳で胸を叩き、ここにいっぱいあると泣くおまえ。
取り返しのつかない時間を返せと泣くおまえ。




権威を持たぬ者達の声。
何も持たぬ者達の声

声なき者達の声。




振り払え。


おまえの目を塞ぐその手を振り払え。
おまえの耳を塞ぐその手を振り払え。
おまえの口を塞ぐその手を振り払え。



そして高らかに謳え。

誰かが愛して止まない、おまえ達のその唄を。




権威を持たぬおまえ達の唄。

何も持たぬおまえ達の唄。

声なき者達の唄。



塞がれた手を振り払い

高らかに謳え。



ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして頂ければ励みになります(*^^*)👇

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

断罪するな

「断罪するな」と声がする。



踏みつけられた者達が叫ぶ。

「断罪するな」と声がする。



踏みつけられた者達が怒る。

「断罪するな」と声がする。



踏みつけられた者達が泣き叫ぶ。

「断罪するな」と声がする。



「お前は人なのだから神ではないのだから」と
「神が裁いて下さる」と
「お前も罪人なのだから」と

「断罪するな」と声がする。



血に染まった土の中から泣き叫ぶ声が聞こえる。
傷だらけの魂を差し出し怒るお前の声が聞こえる。



「断罪するな」と声がする。

「口を塞げ」と声がする。



踏みつけられた者達の声が聞こえなくなる。




血で染まった手で盃を上げ、満足気にお前は言う。

「断罪するな」




ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチっとクリックして頂ければ励みになります(*^^*)👇

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村