metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

江戸の仇を長崎で討つクリスチャン

「日本のクリスチャン人口が少ない理由2」
を書くつもりでしたが、急に違う事を書きたくなってしまいました(-""-;)
ので、「日本のクリスチャン人口が少ない理由2」は次回の記事に書くとして、今日は違うテーマで書かせて頂きます(^^;


🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀

さて・・・・
「江戸の仇を長崎で討つ」・・・
討たれた長崎の人は、たまったものじゃない。

「個人的恨みを世の中で討つ」・・・
討たれた世の人も、たまったものじゃない。


仇は、的を確かにして討って欲しいと思う。


もし・・・
貴方が「親」に何か理不尽な事をされて恨みがあるのなら、貴方の仇は親である。
世の人ではない。


もし・・・
貴方が「クラスメイト」に、いじめを受け恨みがあるなら、貴方の仇はクラスメイトである。
世の人ではない。


もし・・・
貴方が「会社の上司や同僚」に不当な扱いを受け
恨みがあるなら、貴方の仇は「会社の上司や同僚」である。
世の人ではない。  


もし・・・
貴方が「主婦仲間」から、嫌がらせを受け恨みがあるなら、貴方の仇は「貴方の主婦仲間」である。
世の人ではない。


もし・・・
貴方が「御主人」から、威圧的な態度をとられ恨みがあるなら、貴方の仇は「貴方の御主人」である。
世の人ではない。


もし・・・
貴方が「奥様」から、日々、嫌味を言われ恨みがあるなら、貴方の仇は「貴方の奥様」である。
世の人でばない。


もし・・・
貴方が「誰か」から、いわれもない差別を受け恨みがあるなら、貴方の仇は「貴方にいわれもない差別をした人達」である。
世の人ではない。


仇は「的」を絞らないと、仇を討ちたい相手に届かない。


仇を討ちたい相手が、もう、何処にいるか分からないのなら、今現在、貴方にした仕打ちを、遠慮もなく行っている人達に向かって「やめろ❗」と、叫べば良い。

一人では、どうしても仇を討てないと言うのなら、
貴方と同じ仕打ちを受けた人達と一緒に、
「やめろ❗」と、叫べば良い。



許す・・・❓
許して、どうするのだ。
相手を許したら、自分が楽になる❓
嘘だ。貴方がちゃんと相手に「叫べば」ない限り、楽になんてなれない筈だ。許せない筈だ。


黙っていてどうするのだ。


理不尽な事をされ、いじめを受け、不当な扱いを受け、嫌がらせを受け、威圧的な態度をとられ、
嫌味を言われ、いわれもない差別を受け・・・


黙っていてどうするのだ。


相手は、ますます図に乗り、弱き者をいじめ、不当な扱いをし、嫌がらせを加え、威圧的になり、嫌味を続け、理不尽に、いわれもない差別をして平然と、しているだろう。

貴方と同じ様に泣く人が、増えていくだろう。


怖がるな。


虐げられた、弱き者達が、威圧する者達に挑む時、必ず神からの力があると、それこそ貴方達の言う「聖書に書いてある」事ではないか。


貴方達の仇は・・・・
貴方達の敵は、世の人ではない。

貴方達の言う「世の人」の中に、必ず、貴方と手を組んでくれる人がいる。


貴方達の敵は、世の人ではなく・・・
貴方を不当に威圧した人達だ。


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私が考える日本のクリスチャン人口が少ない具体的理由1・【ごあいさつ】

「ごあいさつ」は、人間関係の中の基本のひとつだと、私は思っている。

「おはようございます」「こんにちは」「御無沙汰しています」「やぁ❗」「久しぶり~(^.^)」などなど、TPO によって表現は色々であるが、コミュニケーションの最初の窓口だと思っている。

そして、貴方と友好的なコミュニケーションを持ちたい・・・と、思う時、「ごあいさつ」は、感じの良いものとなる。



では、クリスチャンの「ごあいさつ」はどうかというと・・
一言でいうと「物凄く感じが悪い」のである。

例えば・・・
🍀初対面の指導者に対して、ポケットに
 手を突っ込んだまま、いきなり「ほんで、自分さ
 ぁ・・・」😨😨😨

🍀「お世話になってます~」と言いながら、目も見ず歩きながら横を通りすぎる😨

🍀「こんにちは(^_^)」と、挨拶したら「あっ」とだけ言って顎をしゃくる😨


🍀挨拶をしても、目も見ず、まるでそこにいないかの様に無視する😨

🍀「おはようございます」は、いいが、殆どケンカ口調😨


上記は全てクリスチャンが私にした事である。
おまけに、全て別々のクリスチャンの方々である。
ニコリともしない、上記の様な「ごあいさつ」に
出会った私は、最初、随分悩んだ。

私がきっと何か気に障る様な事をしてしまったのだ・・・何だろう・・・と。



しかし、ノンクリスチャンの人から、
「どうして、あの人は私にあんな態度をとるのかしら❓私、何か気付かずに、嫌な事してしまったかしら❓」・・・と、相談を受けた時、あぁ、私にだけでは無いんだ・・.と分かった。


その後、数年にわたり、ノンクリスチャンの方々からの怒りの声を聞くこと12名・・・・

「あの人いったい何様なの❗」
「あんなに気分の悪い思いをしたのは初めて❗」
「二度と会いたくない❗」
「悪すぎる。出入禁止❗」
男性に至っては、「あの勘違い男」・・・と辛辣である。

上記は全て、別々のクリスチャンの「ごあいさつ」に対しての、ノンクリスチャンの反応である。


一番印象に残った、ノンクリスチャンの言葉は、
「彼は僕に凄い敵意を持っている様に感じる。兎に角、何か分からないけど敵意を感じる」・・・
という言葉である。

鋭い❗・・・そのとおり❗


では、クリスチャンの方々が、ちゃんとした「ごあいさつ」も知らない人達なのか・・・といえば・・・実は、そうではないのである。


クリスチャン同士では、とても感じ良く友好的に「ごあいさつ」を、しあっているのである。




私は、人に自分がクリスチャンであるという事を伝えていない。私の事をクリスチャンだと知っている人は、殆どいない。

なので、あの、世にも不思議な「ごあいさつ」を、私にしたクリスチャンの人達も、私はノンクリスチャンだと思っている。

あの、クリスチャンがノンクリスチャンに対してする「ごあいさつ」の感じ悪さは、ノンクリスチャンにしか経験出来ないのかも知れない。

感じが悪いくらいなら、まだ、やり過ごせる。


しかし、あの「ごあいさつ」を仕事の場でやられると、非常に困る。

取引先からクレームが絶えないのである。

外部の人と関わる仕事に采配した側にも大いに責任はあるが、全く外部と関わらせないという事が、仕事上、出来ない時もある。


困り果てた私は、ある日、あの「ごあいさつ」をする、クリスチャンの新人さん(仕事の)と、膝をつき合わせて話をした。


新人さんに聞いてみた。
何故そういう「ごあいさつ」をするのかと・・・。
答えは驚くべきものだった。


「教会で、ノンクリスチャンは神の敵だと教えられているんです。ノンクリスチャンはサタン側の人間だと・・・自分達の本当の仲間はクリスチャンだと・・・多分そういう気持ちが自分の中にあるから無意識に、そういう、ごあいさつになったのだと思います。教会の人達もノンクリスチャンには、そういう感じで接しているし、それが良い事だと思っていました」・・と、新人さんは私に答えてくれた。


本当に驚いた。


私は、その新人さんに、
「信仰の自由は誰にでもあるので、貴方がそう思うなら、それで構わない。けれど、その教えは、この仕事とは両立しない。どちらを選ぶかは、全く貴方の自由。私も貴方の信仰を尊重するから、貴方も私達の仕事を尊重してね。どちらでも構わないので、良く考えて又、お返事を下さいね」
・・・・と、伝えた。


暫くして、その新人さんは、教会から離れた。


一年して、その新人さんは、
「あの頃の自分を考えると、何と嫌な人間だったのだろうと自己嫌悪に陥る。けれどまだ、無意識にあの嫌な感じをしてしまう事があったら、教えて欲しい。長年にかけて身に付けてしまったものなので、無意識に態度として出てしまうのが恐い」
・・・・と、私に言った。



あのノンクリスチャンの言葉は、当たり、だったのである。


「敵意を感じる」




クリスチャン、ノンクリスチャンの線引きがある間は、この「嫌な感じ」は必ず形になって現れると、私は思う。
0・1%でも、ノンクリスチャンはサタンに支配されている人達だという思いがあれば、必ず「嫌な感じ」の言動を、どこかでしてしまうだろうと私は思う。

例え、「ごあいさつ」を上手くクリア出来たとしても、どこかで必ず、その思いは形になって現れるだろうと、私は思う。


「嫌な感じ」の人達の集まりになんか、殆どの日本人は、行きたいとは想わない。

行きたいと思う人は、そういうのがカッコイイと思う人か、元々世の中に敵意のある人か、そういう所でも関わりを持ちたいと思う程に寂しい人、くらいだと思う。

私としては、寂しい人を、そういう所に誘わないで欲しいと切に思う。
寂しい人には、負けないで❗と思うと同時に、その人に寂しい思いをさせている自分が情けなくなる。


どちらにしても、
比較的、行儀が良くて、良心的意識の高い日本人は気質的に、そういう所へは行きたいとは思わないだろうと、私は感じる。

日本のクリスチャン人口が少ない理由は、具体的に、こういう理由も大いにある・・・と私は思う。





最後に、クリスチャンの4割位は、上記のタイプと正反対で、クリスチャン、ノンクリスチャンの線引きがなく、「ごあいさつ」も、友好的でとても感じが良い。極端から極端の様に私は感じる。
   (4割というのは私の主観的感覚です)







タラタラとした長い文を、最後迄お読み頂き有難うございましたm(._.)m 


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私が考える日本のクリスチャン人口が少ない理由 コメント4

日本のクリスチャン人口が少ないのは、皆がご存知である。

その理由として、「日本は元来、神道仏教の国だから・・・」という事がクリスチャンが少ない理由だと言う人がいる。
それも確かにあるだろうと思う。

又、「日本は、キリスト教に余り馴染みのある人が少ないから・・・」という事がクリスチャンが少ない理由だと言う人がいる。
私は、これは少し違うと思う。

最後に、「私達が、いくら神様の事を伝えても伝えても、うなじをこわくして神を信じないのです
聖書にもそう書いています❗」・・という人がいる。
私は、これは問題外だと思う。
そんな事を言っているから、益々クリスチャン人口が少なくなるのだと私は思う。



私が思う日本でクリスチャンが増えない理由は・・・・・・

明らかに、世の中の人と「違う」から、であると、思う。

どちらが良い悪いというという話ではなく、
明らかに「違う」からだと思う。


遠目で見ている間は分からないが、少し近くでクリスチャンと関わる様になると、この「違い」は、ハッキリとノンクリスチャンの方は感じらる様だ。
私も感じる。

思い切って言わせて頂けば・・・
これは私の感覚ではあるが、「違う」というより、「変」である。

勿論、皆とは言わないが、私の感覚で「変」と感じるクリスチャンの方の確率は、物凄く高い。
60対40位の確率の様な気がする。
(60%が「変」で、40%が「変ではない」)

もう一度、お断りするが、この「変」と、いうのは私の感覚である。

別に、「違って」も「変」でも、何の問題もない。
と、言いたいところではあるが、クリスチャンの、世の中の人と「違う」は、甚だしく、世の中の人に迷惑をかけてしまう「違う」なので、問題がないとは言えないのが辛いところである。

甚だしく人に迷惑をかけたり嫌な思いをさせないのであれば、何も人と同じである必要もないし、それこそ「みんな違ってみんないい」。
変であろうが無かろうが、それぞれの個性で何も問題は無いと思っている。


なので・・・
私の考える、日本でクリスチャン人口が少ない理由は、人に迷惑をかけたり、嫌な思いをさせる様な、
世の中の人との「違い」が、あるからだと思う。



クリスチャンと近しい関係になって、この様に感じられるノンクリスチャンの方の声が多いのを無視して、日本のクリスチャン人口の少なさを語るのは、無理がある様に私は思う。



そして、クリスチャンの方に石をぶつけられそうであるが・・・・
私は別に、今の認識によるクリスチャンになら、クリスチャンにならなくても良いと思っている。

ノンクリスチャンの方が、実は、イエス様の言われる「クリスチャン」だった。・・・
ということも充分あるのではないかと思っている。  この事については、いつか書きたいと思っている。



次回からは、人に迷惑をかけて、嫌な思いをさせるような世の中の人との「違い」とは、具体的に、どういった事なのかを、書いていきたいと思う。


考えれば、私はこのブログで、問題発言ばかりをしている様な気がする。

それでも私は、イエス様が大好きなのだ。


エス様は、何と思われているのだろう・・・

今の私には、答えが聞こえない。





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神から一番遠い場所・・「教会」・・・。 コメント2

やもめの献金を称賛するのなら、

おまえが両手で抱え込んで離さないものを、
先ず、やもめに差し出せ。

おまえが差し出したと、
やもめにも、誰にもわからないように差し出せ。


それが出来ないのなら、その口をつぐむがいい。
そして、ただ恥じ入り祈るがよい。



教会にいる、やもめ達を、その目をしっかり開けてみるがよい。



おまえの子が、海外で勉強をしている間に、
やもめ達の子は、餓えている。


おまえ達が文化を楽しんでいる間に、
やもめ達は、日々の過酷な労働で痛めた身体を治すお金さえ工面出来ない医療難民になっている。



やもめの献金を称賛するのなら、
おまえが両手に抱えて離さないものを先ず差し出せ




おまえの教会に、やもめ達がいないというなら・・・


それは、おまえ達が、やもめを追い出したのだ。



やもめの献金を称賛するのなら、
おまえが両手に抱えて離さないものを、先ず、やもめに差し出せ。
それが出来ぬのなら、口をつぐめ。


そして口に出した自分をただただ恥じ入り、
祈るがよい。



教会が、神から一番遠い場所とならぬように。



🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀

先ず、この散文を読まれて気分を害した方がいらっしゃいましたら、お詫び致しますm(._.)m


乱暴な口調と、少なからずの怒りと・・・
気分を害される方がいて当然かと思います。
しかし、これは私の、紛れもない本音です。


この散文を書く気に至ったのは、ある牧師の先生との会話によります。
もう随分、昔の出来事に遡るのですが・・・


その牧師の先生と私は、牧師と信徒という間柄ではなく、仕事上でのお付きあいをさせて頂いていました。

ある日、その牧師の先生が、
「この間、教会に浮浪者が物乞いに来ましてね・・・・私、うちはそういう事はしてません❗って、ドアをバン!と閉めて追い返したんですよ」

と・・・・。武勇伝でも語るように話されました。


私は、何とお返事したのかは覚えていませんが、ただただお腹の底から沸き上がってくる怒りと、言い様の無い悲しさでいっぱいになったのだけは覚えています。


その後、色々な教会の牧師の先生のお説教を聞き、色々な教会の信徒の方々と交友を持ち、又、書物を読み・・・という日々を過ごすうち・・・・
上記の様な牧師の先生程ではなくても、多かれ少なかれ、本質的に同じ感覚が、教会の中に流れていると感じざるを得ませんでした。


むしろ、その感覚が無い教会の方が少ない様に感じました。
けれど、あることはあります。


私は、浮浪者の物乞いの方が安心して来れる教会が、そしてその方を憐れむのではなく、普通にお互い敬意をもって関われる教会が、少しでも多く有って欲しいと願っています。


そして、教会が、お互いから勇気を貰い、皆が幸せに生きてくエネルギーを養える故郷であって欲しいと願っています。



重複致しますが、私の書いた散文で気分を害した方に重ねて心よりお詫び申し上げますm(._.)m

一人の、怒りに駆られ感情を抑制出来ないの人間の戯言と、一笑に付して頂ければ幸いです。


     御国が来ますように。

🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀


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一杯の「冷えた水」

喉が渇いている人に・・・
一杯の水を、恵んでどうする。施してどうする。
喉が渇いているその人は、
一杯の冷えた水を飲む権利がある。
私はただ、一杯の冷えた水を、お返しすればいい。



餓えている人に・・・・
パンを、恵んでどうする。施してどうする。
餓えているその人は、
パンを食べる権利がある。
私はただ、パンを、お返しすればいい。



寒さで凍えている人に・・・
上着を、恵んでどうする。施してどうする。
寒さで凍えているその人は、
上着を着る権利がある。
私はただ、上着を、お返しすればいい。



身体が不自由な人に・・・・
住みよい社会を恵んでどうする。施しでどうする。
身体が不自由なその人は、
住みよい社会で暮らす権利がある。
私はただ、住みよい社会を、お返しすればいい。



恵んでどうする。
施してどうする。


目の前にいるその人の権利を、搾取したのは、
私自身かも知れないのに・・・。



「ぬるい水」ではなく・・・
「冷たい水」が欲しいと・・・・
 言われている。


あまりにも、当たり前のことを、
あなたは言われている。




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隣人が求めているもの

隣人の隣人になるのは生半可なことではない。

「ならなければならない」と思ってなれるものでもなければ、「なろう」と思って簡単になれるものでもない。

ならずにはいれなくて、なっているものである。



隣人と共に歩く時は、へりくだってはいけない。
隣人は貴方にへりくだたれて、酷く傷つくだろう。

「へりくだる」というのは、もともと高い所にいるということである。
隣人は、自分は、自分が低い所に置かれている現状の認識を、貴方の「へりくだり」で、もう一度思い知らされ、打ちのめされるだろう。



憐れんでもいけない。
貴方の憐れみが、隣人を傷つけるだろう。

誰も、人から憐れみを受ける存在でなんかいたくない。




隣人が望んでいるのは、へりくだられて憐れみを受けることではない。

隣人が望んでいるのは、共に共感し、共に歩み、共に闘ってくれる同志である。


へりくだりなんかいらない。
憐れみなんかいらない。


隣人は貴方と同じ尊厳をもった人間てある。

隣人は、隣人であるがゆえ、貴方の傲慢を誰より見抜いている。



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子供を支配するクリスチャンの親達

「子供を支配して当たり前」という、又は考えているクリスチャンの親達がいる。
信じられない事だが、本当にいる。
私は、この言葉を最初に聞いた時、驚きのあまり
開いた口が塞がらなかった。

もっと悪い事に、聖書を権威付け、その聖書の権威とやらに乗っかかり、子供を支配する。

もっとおぞましいのは、神の名を利用して、子供を支配する。


支配された人間は、当然、抑圧される。


子供は、支配するものではなく、養護し、保護するものだと私は思っている。






「子供は神様からの授かりもの」とは、よく言ったものである。私も、その通りだと思う。
それを、いつの間にか「自分のもの」にしてしまっている。


神様の名を借りて、子供を自分のものにしてしまうのは、クリスチャンの親ぐらいであろう。(この日本において・・・)


クリスチャンの親自身が、気付いているいないに関わらず、自分の支配欲と虚しさを埋めるには、子供は一番簡単でやり易い存在である。

世の中の人は、そうそう簡単に貴方の支配欲と虚しさを埋める為の、餌食にはなってはくれない。


しかし、一人では、生活出来ない子供相手になら簡単であろう。
貴方に食べさせて貰わなければ生きていけない子供相手になら簡単であろう。

脅せばよいのである。
それも、幼稚な脅しで通じる。
神の名を出して脅しても通じる。


大人には、そんな脅しは通じない。




いつも抑圧に泣くのは、非力な小さい者達である。



神は、非力な小さい者達の側におられると、私は信じている。


たとえ貴方が、どんなに神の名を出して、小さい者
達を支配しても・・・・


貴方は、神様からの授かりものを、永遠に支配することはできない。




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