metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「おもり」をさせるクリスチャン コメント2

人に「おもり」をさせるタイプの人間が何故かクリスチャンの中に非常に多いと感じるのは、私だけであろうか?

承認欲求が桁をハズレて強いタイプの人が、クリスチャンの中に、とても多いと感じるのである。

そんなに人に認めてもらいたければ、それに見合う努力をすれば良いのにと思うのだが、それはお嫌らしい。


「何も代価は払わず、欲しいものを得る」・・・というのが大好きでらっしゃる様だ。


貴方は素晴らしい❗
尊敬します❗
偉いですね❗
立派ですね❗
すご~い❗


・・・・と、言ってあげなければ、延々と「私(僕)って素晴らしいでしょ!」の、自慢にもならない自慢話が続く。




🍀「おもり」が必要な貴方様へ

前略。

ごめんなさいm(._.)m
私・・・・めんどくさいですm(._.)m


30分位なら、「すごいですね❗立派ですね❗やっぱり貴方は違いますね❗」ぐらいの、お付き合いは出来るけれど、31分めからは無理です。

貴方の承認欲求を満たす為のお付き合いを、長々する程には、私、暇ではないのです。ごめんなさいm(._.)m


その上、貴方の「おもり」をすると、エネルギーも物凄く取られるのです。
グタッとします。ので、私におもり役を求めるのは、勘弁して下さい。


多分、皆さんそうなのでしょう。
クリスチャン以外の人が、一人、二人と、貴方から離れていくのは、エネルギーを取られて生活に支障をきたすからなのだと思います。
悪く思わないで下さい。皆さん黙ってエネルギーを取らせてあげている優しい人達なんです。
ただ、皆さん限界がこられて、貴方から離れられたのだと思います。


それと・・・よけいな御世話と、お怒りになられるかも知れないのですが・・・
貴方達の、お子様の「覇気」が無いのがとても気になります。
確かに大きなお世話でしたねm(._.)m
申し訳ございませんm(._.)m
でも・・・気になるのです。
子供の騒がしさというには、度を越した騒々しさだったりするのに、何故か覇気がないのです。


お母さん(お父さん)ってすご~い❗
お母さん(お父さん)って偉いね❗
お母さん(お父さん)尊敬する~❗

・・・と、まさかお子様に「おもり」をさせていらっしゃいませんよね❓

お子様が、すごい~❗と言われなかったら、親の権威とかやらで「親を敬いなさい❗でないと、地獄に堕ちますよ❗」とか・・・まさかおっしゃってはいませんよね❓


貴方達のお子様が、人前で、殊更大きな声で、
「お母さん(お父さん)ってすごい~❗尊敬する~❗」と、唐突に言われた時の、貴方の恍惚とした目を、私は忘れられないのです。



大人の「おもり」というのは本当に疲れるのです。
まだ幼いお子様が大人の「おもり」をしたら、エネルギーの殆どを取られ、覇気が無くなってしまうのも無理は無いかと思っています。
大人でもそうなのですから・・・
子供なら尚更かと思います。


そして・・・まさか、「親に感謝しなさい❗」と、感謝の強要などは、されていませんよね❓


いつか、そうして育てられて、成人された方の事を記事に書かせて頂きたいと思っています。


そう❗
私にひとつ良い考えがあります(^.^)


どうしても、ヨイショして貰いたければ、ご自分の伴侶にして頂くというのは如何でしょうか❓
貴方が男性でも女性でも。
貴方が可愛ければ、伴侶の方ならヨイショしてくれることと思います。
世の中の誰もヨイショしてくれなくても、ご伴侶ならヨイショしてくれます(*^^*)きっと・・・。
これなら微笑ましいかと思います。


ただし・・・貴方が可愛ければ・・・の話です。


えっ❓
まさか、可愛くいる努力の代価も支払いたく無いって・・・・❓

まさか・・まさか、そんなことは無いですよね❓


どうであれ、私は、今日をもって貴方様の「おもり」役を辞退させて頂きたいと思いますm(._.)m

長々と失礼致しました。

🍀かしこ




私も、ノンクリスチャンの人達も・・・・

貴方の「おもり」をする為に、生まれてきたんじゃない。



     
      注:(ノンクリスチャンの皆様へ)
        決して、全てのクリスチャンが、
        そうではありません。
        上記も私の主観です。




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「聖書に書いてあるから」というクリスチャン

「どうして❓」
・・・と、聞くと、
「聖書に書いてあるから」と、くる。


全然、説得力が無い。


せめて、
「私が勉強した範囲の聖書知識において、それが今の自分は納得がいって、正しいと思うから」

・・・・と、いって貰えないだろうかと思う。
贅沢なお願いだろうか❓
面倒でも、せめてそう言って貰えれば、会話をつなげる事が出来る。


「どういう風に❓どういう理由でその翻訳に納得いってるの❓」と・・・。



聖書といっても、色々な翻訳がある。
メジャーなものから、個人訳迄、沢山ある。
訳によっては正反対の意味になったりする。

貴方が何故、その聖書の翻訳に納得がいったのか、そこから聞かせて貰わなければ納得なんて出来る筈もない。

ましてや、貴方が、貴方の持っている聖書しか読んでいないのであったなら、「聖書に書いてあるから」は、何の意味も持たない。

「こちらの聖書には、こう書いてあるけれど・・」
という会話さえ出来ない。


定本と呼ばれる原典も、写本学者の研究により更新が続き、改定されるなら、「今」わかっている研究においての翻訳において・・・という条件付きの納得しか出来ないのは、誰が考えたってわかる。


今、現在の翻訳に納得していても、10年後、100年後には、写本学者の研究によって、全く正反対の、又は違う意味の訳になっているかも知れないのである。


ユニコーンが良い例である。



切り捨て御免の如く、「聖書に書いてあるから」
と、言われたって、私には、「私、考えるの面倒だから、そういう事でいいでしょう」

・・・・・と、言っているようにしか聞こえない。


だって、話の接穂がないんですもの・・・



「聖書に書いてあるから」という言葉は、聖書に対して、とても不誠実な向き合い方だと私は思う。



「聖書」は、水戸黄門の印籠じゃない。



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貴方が何と言ったて・・・・

貴方が、永遠の地獄に堕ちると言ったって・・・


貴方が、私の事を救われていないと言ったって・・


貴方が、何と言ったって・・・・


イエス様の愛にはかなわない。


貴方が、何と言ったって・・・・


私は怖くない。






貴方が、私に従わないのは罪だと言ったって・・・


おかしいと思えば従わない。



私は、イエス様にしか従いたくない。


貴方は神じゃない。



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スーパースターなんかじゃない

ラハブによる・・・
ルツによる・・・・
ウリヤの妻による・・・
そして・・マリヤによる・・・

女性が系図に名前を連ねる事など考えられないこの時代・・・・聖書に名前を連ねられた女性達。
それも、全て、その時代では、曰く付きの女性達。

サラブレッドの血統ではない。
曰く付きの女性達の血をひくイエス様。

だからこそ、私はあなたに惹き付けられる。





難民の赤子・・・・
難民の父と母の間で眠る赤子イエス。

そんなあなただからこそ、私を惹き付ける。





いつも、お腹をすかしている青年。
大食漢で大酒呑みと言われようと、空いた腹は食べなければ埋らない。
貪る様に食べねばならぬ程、空腹だったイエス。

そんなあなたが、悲しいほど愛しい。





背負う十字架に何度も倒れ、辱しめを受け、罵られ。鞭打たれ・・・
「エロイエロイレマサバクタニ
信頼する我が父に、何故自分を見捨てたかと、叫ぶあなた。
ユダヤ教徒としての悲痛なイエスの父への祈り。


あなたの悲痛な祈りがあるからこそ、私は、あなたを拠り所に出来る。
あなたの祈りが、立派なものだけだったなら、私が拠り所に出来るものはなかった。
帰る場所もなく、今もさまよっていた。




復活後、園の番人として・・・
そして、岸辺の野宿者として姿を現されたあなた。
あなたがスーパースターのように現れていたなら、私は、あなたを探せなかった。





スーパースターなんかじゃない。





あなたがスーパースターだったなら、私はあなたに惹き付けられる事はなかった。



スーパースターじゃないあなただから、あなたの苦しみが痛く、悲しく、愛しい。



あなたが幸せなのが一番いい。
あなたが泣いていないのが一番いい。


たとえ、救いが保証されていなかったとしても、
あなたがスーパースターではないから、
私は希望を持てる。




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クリスチャンであるが故に人を誉めれない人達

皆様は、人を誉める(褒める)ことは、お好きであろうか? 私は比較的好きな方である。

美味しいお料理を頂けば、「ママさんのお料理いつも美味しい~❗」
美しいダンサーを見れば「なんて綺麗なの❗夢のよう❗」
スポーツで頑張っている人を見れば「そんなに頑張れるって凄いね❗」
他、優しくて素敵な人ね・礼儀正しくて素敵ね・気さくでフレンドリーで素敵ね・落ち着いていて魅力ね・・・・・・
など、褒めるという意識さえなしに、感動した時は口に出る。
勿論、誰かを褒める事で、傷つく人がいる場合は、思っていても口に出さないのは、言わずもながではあるが・・・

人を誉める(褒める)のが苦手な人がいる。
照れくさかったり、普段言い慣れていなかったり、他、わざとらしいと思われたくなかったり、お世辞と誤解されるのを恐れたり・・・
理由は色々であろう。
しかし、たとえ口には出さなくても、思いというのは案外伝わるものである。
人を誉めるのが苦手な人から流れてくる空気は温かく心地よかったりする。


しかし・・・・
「人を誉めたくない」という人がいる。
面白いことに、人を誉めたくない人は、「自分だけ誉められることが大好き」である。



さて・・・
数ヵ月前、面白い礼拝説教を聞いた。
話の流れは、ノンクリスチャンが何か素晴らしい事をしたらしい。
その話をした後の牧師の先生の言葉は次の通りである。

「皆さん、本当だったらノンクリスチャンは、そういう素晴らしい事をしないで、クリスチャンが素晴らしいことをした・・と、言いたいですよね。ノンクリスチャンはダメで、クリスチャンだから素晴らしい事をしたんだと、皆からも思われたいですよね。でも残念ななことに、この素晴らしい事をしたのはノンクリスチャンだったんです。」

(-""-;)(-""-;)(-""-;)
一瞬冗談だろうか?・・・と、耳を疑ったが、冗談ではないらしい。牧師の先生は、いたって大真面目にお話をされているようである。(-""-;)


牧師の先生は、
🍀ノンクリスチャンが素晴らしいことをするのは残念なことと感じていらっしゃる。
🍀素晴らしい事をするのは、クリスチャンのみであるのが好ましい。
🍀世の中の人に、ノンクリスチャンはダメでクリスチャンは素晴らしいと思って欲しい。

・・・・と、考えていらっしゃる事がよ~くわかった。

クリスチャンだけが誉められなければ、お嫌らしい(^^;
ノンクリスチャンが誉められるのは、とても残念なことらしい(^^;


断っておくが、牧師の先生方の多くは、こんな冗談の様な事は思っていらっしゃらない。はずだ・・・
しかし、この冗談の様な事を本気で思っているクリスチャンや牧師の先生が少なからずいるのも現実なのである。

そういったクリスチャン達は、誰かが何か功績を収めると、必ずケチをつける。
又、誰かが誉められると落ち込んだりもする。

そして、巧妙な自慢話が始まる。

よ~く聞いていれば、自分や自分の仲間のクリスチャンが、いかに素晴らしいかという話である。
そして、世の中の人がいかにダメかという話を、これまた巧妙に始める。

・・・・これで人に嫌われない筈がない(-""-;)

世の中とますます摩擦を起こし、トラブルメーカーになっていく。



要するに・・・・

そういったクリスチャン達は、ノンクリスチャンが嫌いなのだ。
どんなに相手が素晴らしくても、嫌いな人間を誉めることは難しい。

シンプルである。
自分達クリスチャン以外は嫌いなのである。

嫌いは嫌いで構わない。
誰だって嫌いな人はいる。
嫌いな理由は色々あろうが、無理して好きになろうとする事はない。
無理して好きになろうとしても、それはやはり嘘で、嫌いは嫌いなのである。

ノンクリスチャンの人達も、「あ~私達の事は嫌いなんだな・・・じゃあ上手に距離を置こう・・」
と、大人の判断で今後は対応してくれる。



けれど・・・どうしても気になる事が、ひとつだけある。


そういう親達に連れられて教会に行く子供達である。
小さい頃から、ノンクリスチャンに対する嫌悪感を植え付けられる。

当然、学校でも嫌われ、辛い思いをする。
しかし、子供達は何故、自分が嫌われるのかが解ららない。
悪い事に、何故嫌われるかが解らないから、やはりノンクリスチャンは嫌だという気持ちが確信になっていく。
そうして大人のなってゆく。


ある日・・・
そうして大人になった青年が、キッパリ教会とも教会の人達とも縁を切った。
教会に在籍していた頃、彼は、仕事でトラブル続きで周りから嫌われ、とても苦しんでいた。
彼は、何故自分が嫌われるのかが解らなかった。
解りはじめて、教会と縁を切った。



彼は私に言った。
「あの教会を離れて本当に良かった。今、考えると心底嫌になる。あの教会に居たという過去さえも僕は消してしまいたい」・・・と。



彼は今、皆から可愛がられ、毎日、楽しく仕事をしている。



クリスチャンの貴方は、そんな彼を、
「世の価値観に流され敗北した」・・・と言われますか?  


大変僭越な案だということを承知で申し上げます。



「貴方は本当はノンクリスチャンのことがお嫌いですか?」
胸に手をあてて、考える機会をお持ちになるのも・・・   一案かと思います。



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長い文を最後までお読み頂き有難うございました
                  m(._.)m

「あなたは罪びとです」と言うクリスチャン。どうにかならないのか・・・。

教会に行き、「あなたは罪びとです」「あなた方はは罪びとなんです」というセリフを牧師の先生から聞いた事が無いというクリスチャンは、とても少ないであろう。 殆んどのクリスチャンは一度ならず、何度も聞いているのではないであろうか?

どうにかならないのか・・・と、思う。



人が、初めて教会の門を叩く理由はそれぞれである。
友達に誘われたから・・・
興味があったから・・・
親がクリスチャンだから・・・
理由は千差万別であろう。

その中に、罪の意識にのたうちまわり、苦し過ぎて教会の門を叩く・・・という人が少なからずいる。という事を牧師の先生が、ご存知無い筈がない。
牧師の先生でなくても、そういう人が少なからずいるという事を多くの人が知っている。

「神様の目からご覧になると罪びとなのです」とか、
「世の中の基準では罪人ではなくても・・・」とか、
そういう話ではない。


神様の目からご覧になって罪びとであろうがなかろうが、世の中の基準で罪人であろうがなかろうが、
とにかく、本人は罪意識で「生まれてこない方が良かった」・・・と迄、追い詰められているのである。

そして、誰が自分を許しても許さなくても、自分で自分を許しても許せなくても・・・
この世に一人も自分を受け入れてくれる人がいなくても・・・
自分で自分を受け入れることさえ出来なくても・・イエス様だけは、そんな自分の痛みに寄り添い抱きしめてくれることを、その人は知っているのである。

聖書を全く読んだことが無くても、牧師の先生の話を聞いた事が無くても、その人は、イエス様だけは自分に寄り添ってくれるということを知っているのである。

そういう人達にとって、「呼ばれる」と、いうのは本当にピタッとくる言葉である。実感である。
まさしく、イエス様に「こっちへおいで」と呼ばれて、倒れそうな足取りで泣きながらフラフラと教会の門を叩くのである。

門に入った後、
「人は皆、罪びとなのですよ・・・貴方だけではないのです。貴方も私も皆、同じですよ。」
これなら良い。これは罪意識で打ちひしがれている人に対しての慰めであり、希望の扉を開くきっかけになるかも知れない。

しかし・・・
「貴方は罪びとなんです❗貴方は知らなかったでしょうが、世の中の基準では罪人で無くても神様の基準からご覧になったら貴方は罪びとなんです❗わかりましたか❗」

これでは、不治の病に苦しんでいる患者に、
「貴方は不治の病なんですよ❗医学を知らない貴方にはわからないかも知れませんが、貴方は不治の病なんです❗わかりましたか❗」
と、言っているのと同じなのである

当然、その患者は、そのドクターから離れて別の所へ行くであろう。

そして、当然、罪意識でのたうちまわって教会の門を叩いたその人も、失望して教会から去るであろう。



私の個人的な意見だが、
教会の門を叩く前に、罪意識でのたうちまわった経験の無い人は、人に「あなたは罪びとなんです」というセリフを決して言ってはいけないと思っている。
又、教会の門を叩く前に、罪意識にのたうちまわった経験のある人は、人に対して「あなたは罪びとなんです」とは、決して言わないであろう。

教会の門を叩く前に、罪意識でのたうちまわった経験の無い人は、イエス様を信じたら、その罪意識から救われたという経験が、当然無いのであるから、「イエス様を信じたら救わるから信じなさい❗」など、言ってはいけないと、私は本気で思っている。 
出来ることは、その人の痛みに寄り添い祈ることだけである・・と、私は思う。
それしか出来ない筈である。
後は、神に委ねることしか出来ない筈である。




ユダに対して、「自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」と、自分を十字架にかける相手に対して強い痛みと悲しみと絶望の共感をせずにはいらっしゃれなかったエス様・・・。
だからこそ、罪意識にのたうちまわっている人間は、イエス様のところに行くのである。


ユダを通らなければ、イエス様にお会い出来ない人間など、世の中にはごまんといるのである。


そして、そういう人間をイエス様は、呼んでいらっしゃるのだと私は思う。

切実にイエス様を求めている人達である。切実に。

「あなたは罪びとなんです❗わかりましたか❗」
このセリフは、イエス様を求めた人間を、教会から追い返すセリフでもある。
イエス様の所に行きたい人間を追い返すセリフでもある。・・・.と、私は感じる。




しかし・・・・
そんな風に教会から追い返されたユダ達も、教会の外でイエス様と共にいるだろう・・・と私は思う。


教会の外で膝を抱え泣いているユダの肩を、イエス様は抱いていらっしゃるだろうと、私は感じる。



教会が、ユダを追い返しても、ユダが、イエス様から離れることはない。


私も・・・ユダである。




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加害者から被害者にすりかわるクリスチャン

前回の記事まで、クリスチャンの上から目線の具体例を、数例書かせて頂きました。

今日はテーマを変えて書かせて頂きます。


私がクリスチャンの方と関わらせて頂いて非常に不思議に思う事があります。
それは・・・
「加害者の貴方が、いつの間に被害者になったの❓」と、言いたくなる出来事が頻繁におこるという事です。


例えば、クリスチャンの方が、周りに迷惑をかける事をなさったとします。
そしてその事を気付いていらっしゃらない様なので、やんわりと傷つけない様に指摘をさせて頂いたとします。
・・・・ダメなんです(-""-;) 何故かクリスチャンの方に、やんわりは通用しない様で、全く気が付いて下さらないパターンが殆んどです。
ノンクリスチャンの方の殆んどは、やんわりお伝えさせて頂いても、ピピッと気付かれます・・・


それなら・・・・と、次に、
「お願い」という形で、クリスチャンの方にお伝えしてみます。
・・・・これもダメなんです(-""-;) 「気にしないで下さいね」・・・と、いきなり上から目線でこられます。


普通・・・自分が殴っておいて、その殴った相手に対して「気にしないで下さいね」・・・などと上から目線で言う話など、私は聞いた事がありません。

しかし、クリスチャンとの関わり中で、ノンクリスチャンは、このパターンによく遭遇する様です。

クリスチャンの私から見ても、クリスチャンの方との関わりの中でしか起こらない現象なので非常に戸惑いを感じます。



最後の手段として、
「皆に迷惑をかけるので、お止め下さい。
 非常に困ります」と、ハッキリお伝えします。
・・・・な・なんとそれでもダメなんです(-""-;)
「私が、そうしたのは誰々のせいだ❗そんな事はしていない、言ってない、思ってもいない❗そんな人間だと思われていたなんて悲しい❗私を信用していないのか❗誰々が嘘を言ってる❗」
などなど、マシンガントークで手が付けられなくなるのです。
明らかな嘘をついて人のせいにしているのは、皆、知っているので、呆れて何も言えなくなるという始末です。


そして、酷く傷ついたご様子のクリスチャンは、
牧師の先生に、相談される様です。


そして、なんと・・・
「迷惑をしているのでお止め下さい」と要請した、ノンクリスチャンの事を、許す という形で、落ち着かれる様です。
あの・・・「許す」って・・(^^;
いつから貴方は被害者になられたのでしょうか❓
いつから要請したノンクリスチャンの方が加害者になったのでしょうか❓


最終、自分は、クリスチャンで「人を許す事が出来る」と一人で悦に入っておられる様です。


この「加害者から被害者にすり変わる」というパターンがクリスチャンの方に圧倒的に多いのは、何故なのでしょうか❓❓
(勿論全てのクリスチャンの方がそうではありませんが・・・)



あのぉ・・・(^^; ノンクリスチャンの方は、
許すとか、許さないとか、そういう話をしているのではないのです。
許すとか、許さないとか、そういう次元の話をしているのではないのです。

「今後、こういう事が起こると困るので止めて頂けませか?」と要請しているだけなのです。
納得出来なければ「納得出来ない」と言って下されば、お互い妥協点を見つけて、やっていけば良い話だし、悪かったと思えば、今後気を付けて頂ければ良い話だし・・・。

間違いなんて誰でもおかすのだから、皆、お互い様で、誰もクリスチャンの貴方を許さないと言っているわけではないのです。

ただ、ちゃんと、まともに向かい合って対話をしたいだけなのです。


とにかく、クリスチャンの多くの方は被害者意識が異常に強いのは何故なのでしょう。

被害者意識が異常に強いから、すぐ、
許すとか、許さないとかの話になります。


クリスチャンの皆様、人との関わりの中で、
許すとか許さないとかの発想が出てきた時、今一度考えて頂けないでしょうか❓
相手は、ただ困るので止めて下さいと言っているだけで、何もクリスチャンの貴方のした事を許さないと言っているわけでは無いと、考えてみては頂けないでしょうか❓
ただ、ちゃんと向かい合って話をしたいと言っているだけなのだと考えてみては頂けないでしょうか❓
そして・・被害者になりたがらないで頂けないでしょうか❓


心より、要請させて頂きます。



長い記事を最後迄、お読み頂き有難うございましたm(._.)m



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