metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

人を肩書きで判断してはいけない。勿論それが牧師さんであってでもです。コメント2

人は案外、相手の肩書きで、その人の、人となりを判断してしまうところがあるのかも知れません。

そうではない方。つまり人と関わる時、一切の「色眼鏡」をかけない方も沢山いらっしゃる事と思います。

実は私も、数年前迄は、「私は人と関わる時、色眼鏡で見る様な人間ではない!」と、自負していました。  

ところが・・・・
そんな自負が、カタカタカタ・・・と、数年前に脆くも崩れ落ちてしまいました(ToT)





私は何故か、牧師の方と非常に親しくさせて頂く時期が数回ありました。


信仰を通じてではなく、仕事を通じてです。


その数回とも、私の方から親しくさせて頂いたのではなく、牧師の方から私に急接近して来られました。

頻繁な電話や手紙・・・
流石に、私の行く所に突然、現れられた時には、本当に驚きました。
仕事上の関係では、私は、その牧師の方々に指導をする立場でした。

そして、いつもにこやかに、柔和に近付いて来られました。


普段の私なら・・・・

この様に、柔和ににこやかに、急接近して来る人には対しては、強い警戒心がわくのですか・・・


この牧師の方々に、私は警戒心が全く湧かなかったのです。(-""-;)



何故なら・・・
牧師さんでいらしたからです。



一人目に出会った牧師の方に関しては、周りから沢山の忠告を受けていました。

ある時は、面識の無い信者の方に呼び出されて、
「あの人には気を付ける様に」と・・・

又、ある人からは「あの人を信じちゃいけない」と、手紙を頂き・・・

又、ある時には、面識の無い、その牧師さんの教会の近所の方が突然訪ねて来られ、「関わらない方が良いですよ」・・・・と。


はい(-""-;)
その牧師の方は、教会周辺で悪名の高い牧師さんでいらっしゃいました。


普通、ここまで面識の無い色んな方が、私に直接、話をしに来られたなら、「何かあるのかな❓」くらいは思いそうなものなのですが・・・。


私は・・・思わなかったのです。



なぜなら・・・
牧師さんだから・・・・。



牧師さんだから、そんな悪い事をする筈が無い!
牧師さんだから、祈りと一番共にいらっしゃる方が、そんな悪い事をなさる筈が無い!・・・と。

皆、どうしてそんな酷い事を言うのだろう・・と。



数年後。
しっかりやられました。
しっかり金銭的詐欺にあいました。

裁判を起こし、取り返そうかと迷いましたが、色々、総合的に考えて、「高い授業料を払った」と思う事にして、その牧師との関わりを一切断ちました。




そして、次に出会った牧師の方も・・・・

金銭的詐欺には合いませんでしたが、仕事上、大きな損害を被りました。


その牧師に対しても、私は「牧師だから大丈夫」と、自分に近付いて来るのを許しました。
普段なら、絶対に関わらないで距離を置くタイプ方だったのに・・・。




そして・・・・

私は、これらの経験から大きな事を学べました。

私は、自分は色眼鏡で人を見る様な人間ではないと思っていたのに、実は、しっかり色眼鏡で人を見る人間だったのだと・・・。


私は、その人を見ず、その人の「牧師」という肩書きを見て全面的に信用していたのです。


本当に私は、お馬鹿です。


もし、あの牧師の方々が「牧師」という肩書きを持っていなかったら、私はあの方々の言動を見て、絶対に警戒していただろうと思います。


その後、私は、相手が、司祭であろうと、牧師であろうと、先生であろうと、一切の「肩書き」を見ないで、その人の言動のみを見る様になりました。


本当に高い授業料でした。


今後、この痛い経験から、「牧師に用心する」という、色眼鏡をかけない様に気を付けなければ・・・


と・・・・思ってはいるのですが・・・。


チラリ・・・とでも、上記の様な牧師と、同じ匂いのする牧師に出合うと、「警戒しよう」と、思っている私がいます。


そして、その「勘」は、案外、当たっているのではないかな・・・と思っています。


その人の肩書きを、その人から取って、その人を見た時の・・・


私の「勘」です。




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攻撃的で挑戦的なクリスチャン達 コメント2

皆様は、人と仲良くしたいタイプでいらっしゃいますでしょうか?

それとも、ケンカしたいタイプでらっしゃいますでしょうか?

それとも、本当はケンカしたいけれど仲良くしなくてはならないと思っていらっしゃるタイプでしょうか?

それとも、仲良くしたいのにケンカを売られるタイプでしょうか?



攻撃的で挑戦的というタイプの人がいます。

又、友好的なタイプの人がいます。


とても不思議な事ですが、友好的なタイプの人が非常に攻撃的に見える事があります。

又、非常に攻撃的で挑戦的な人が、友好的に見えたり、穏やかに見えたりする事があります。

・・・・・・。

キリスト教を批判する方々がいらっしゃいます。
日常でも、ネットの世界でも少なからずの数で、いらっしゃいます。

この方々は一見、攻撃的です。
しかし・・・よく読むと、人に対して非常に友好的な感性である事が汲み取れます。


又、一方、キリスト教的に物事を肯定的に語る方がいらっしゃいます。日常でもネットの世界でも少なからずいらっしゃいます。

この方々は一見、友好的です。
しかし・・・よく読むと、人に対して非常に攻撃的で挑戦的である事が読み取れます。


一見、攻撃的に見える友好的な人というのは、
一見、友好的に見える攻撃的な人を、しっかり見抜く感性を持っている様に感じます。

一見、攻撃的に見える友好的な人達は、友好を装おいながら攻撃し挑戦してくる人に対して、非常に敏感です。そして受けた攻撃と挑戦に対して、しっかりと立ち向かう様に感じます。

その姿が、人には攻撃的に映るのかも知れません。



友好を装おった攻撃的で挑戦的なクリスチャンは、まず、自分の中の攻撃性と挑戦的な性質を、しっかりと見つめる事が必要な様に、私は感じています。


クリスチャン自身が気が付いていない、攻撃的で挑戦的な性質は、しっかり周りからは見抜かれています。


大変失礼ですが、牧師の方々の攻撃的で挑戦的な性質は、しっかり見える人には見えています。
勿論、全ての方がそうで無い事は付け加えさせて頂きますが、非常に多くの牧師の方々が、攻撃的、挑戦的でいらっしゃると感じます。



悪臭は蓋をしても匂う。けれど光は、どんなに手で覆い隠しても漏れる。
・・・・と、言います。



クリスチャンが、どれ程攻撃的で挑戦的なのか、どんな風に攻撃的で挑戦的なのかは、キリスト教を批判する方々から学べます。



聖職者や牧師から信徒まで・・・
クリスチャンは、見たくない自分の攻撃性を、
心を裸にして見つめ直す事が必要とされている

と・・・私は思います。




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上品で、可愛くて、おおらかで、屈託がなくて、親切で、優しいあの娘 コメント2

あの娘はとても優しい娘。
人には親切で、人懐っこい可愛い娘。
人を疑うことも知らなくて、
人の良いところばかり見える、おおらかな娘。
そして、とても品の良い娘。


あの娘の両親は、あの娘の事を、
とってもとっても大切に育てた。


人を妬んだり、人に敵意を持ったり、損得勘定で人を見る様な娘にはならない様にと、お金を惜しまずに、あの娘を育てた。


あの娘は、自分がお金持ちだと知らない位に、おっとりと豊かに育てられた。


お金持ちだという意識さえ持たない、本当のお金持ちの娘だった。
彼女の孫の孫迄、何もしなくても食べて行ける本当のお金持ちだった。
成金さんのお嬢さんではなかった。


だから、お金持ちを鼻にかける事も知らない、上品な娘だった。


心の品格が備わった娘だった。


勿論、貧しい人や、弱い人にも、とても優しい娘だった。



彼女は本当に、いい娘だった。




みんなが言った。

「やはり育ちが違うわね。育ちって大事ね。」
・・・・・・・。





あの娘のパパは、有名な会社の社長だった。
あの娘のおじいちゃまは、その会社の会長だった。
あの娘の、ひいおじいちゃまは・・・・
武器商人だった。




「育ちが違うから、あんなに上品なのね」
「育ちが違うから、あんなに優しいのね」
「育ちが違うから、あんなに可愛いのね」
「育ちが違うから、あんなに明るいのね」
「育ちが違うから・・・・・・・・」



優しさも、品性も、明るさも、おおらかさも、親切な人柄さえも・・・・

何ひとつ、自分の力で身に付けたものではない。

才能や、努力する力さえも、何ひとつ自分の力で身に付けたわけではない。



優しさ、品性、明るさ、おおらかさ、親切な人柄、努力と力、才能・・・・
全ての良いものは、神様からの送りもの。


下品で人を妬む卑しい人間も、あの娘と同じ育ちをしていたなら、上品で、明るくて、親切な人になっていたかも知れない。


上品で、明るくて、親切な人間も、違う育ちをしていたなら、下品で人を妬む卑しい人になっていたかも知れない。



育ちは自分で選べない。
育ちで身に付けた良いものは、何ひとつ誇れない。
ひょっとしたら、その育ちの陰で、沢山の命が失われていたのかも知れない。
あなたの美しい品格は、武器で殺された沢山の命の犠牲の代償なのかも知れない。




人は、どんな良いものも、誇れない。

全て、その人の力で得たものは無い。

全ての良いものは神が与えたもうもの。




ならば・・・・

全ての良いものは、全ての人と分かち合うためにある。

全ての良いものは・・・・

「自分のもの」ではない。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

私は、まだ10代の頃、努力して何か成果をあげた人の事を、それはその人の力で頑張ったのだから、その人は、努力しない人より素晴らしい人だと思っていました。

又、品の悪い言葉遣いをする人を、何て下品な人なのだろうと、呆れていました。


20代、30代と、世の中の仕組みを知るにつれ、私は今迄の自分の考え方に疑問を持つようになりました。

何ひとつ、人は自分の力で得たものは人は無いのだと・・・世の中の仕組みを知るにつれ感じざるを得なくなりました。

エス様のおっしゃる価値観は、そういう意味で、全くその通りだと感じます。

今は全ての人に与えられ、自分にも与えられた良いもの、美しいものは、自分のものでは無い。と本気で思っています。
どの人であっでも、そうであると思っています。


全ての良いもの、美しいものを、全ての人が共有し合う世の中であれば、本当に素晴らしいだろうと思っています。


あなたの良いものに感謝を込めて・・・・

最後までお読み頂いて、有難うございましたm(._.)m

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


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ルカ16章の不正を働いた管理人の話も、ラザロの話も、基本は全く同じ コメント7

先日、コメントで、ルカ16章の不正を働いた管理人の話題が出ました。

人により、又、教派により、解釈は色々なのだと思います。

この箇所の解釈で、今、私が1番納得している解釈をコメントの返信で書かせて頂きました。

今日は、それをコメントの返信内容をそのまま記事にさせて頂きますm(._.)m

是非お読み頂ければ有難いですm(._.)m

以下の通りです。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

ルカの16章8節について・・・。
以下は、私が今一番納得している解釈ですが・・・

ルカ16章は最後の章迄、お金や財産について書かれていますよね・・・。
それで、この8節ですが、お金持ちの主人と、貧しい管理人が出てきます。他にも、この主人に負債のある貧しい人達が出てきます。

お金持ちと貧しい者が出てくるわけですが、聖書の神様はいつも、貧しい者、弱いもの、小さくされている者に、目を留めていらっしゃいます。
お金持ちと貧しい者がいる・・・という、その事自体が、イエス様の言われる、み国ではない・・・という考え方です。
もっと思い切って言わせて貰えば、お金持ちは金銭や財産を一人で抱え込むな・・という考え方です。

一人で抱え込むのは、ある意味、貧しい者達から金銭を搾取していると、いえる場合もあります。

しかし、お金持ちは、なかなか自分から自分の財産を手放して貧しい者達とお金を平等に共有しようとは、なかなかしないものです。

そこで、このルカの16章8節の、貧しい管理人は、やはり主人に負債のある貧しい者達の負担を軽くする事で、自分も助かり、貧しい者達も助かるという対処法を考え、この行動に出ました。

凄いなぁ・・と思うのは、この対処の仕方に対して、このお金持ちの主人は、貧しい自分の管理人を誉めたということです。

この時代の宗教者(光の子)達よりも、良い感性を持っていると、貧しい管理人の事を誉めたというところが、ブラボー!です。

そして・・・
この16章の最後は、ラザロという、読んでいて胸の痛む貧しい者を出して話を締めくくります。

一番私達に解りやすい形の話で締めくくられます。


8節の管理人の話も、19節のラザロの話も、基本、言っている事は同じです。


貧しい者、弱い者の視座に立て・・・


そこからしか、信仰も愛も始まらないと・・・。
そうでなければ、み国も来ないと・・・


聖書は難解ですが、貧しい者、弱い者の視座に立って読んだとき、不思議と、謎だった聖書の箇所が、腑に落ちる事が多いです。


弱いものの視座に立つ(メタノイア)が聖書解釈の基本の様に感じています。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

上記が、私の納得している、この聖書箇所の解釈です。

皆様は如何でしょうか?

私は、又、色々な解釈を知りたいと思っています(^.^)


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誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。コメント3

クリスチャンの方は、神様に従いたい、イエス様の教えに従いたい、と思っていらっしゃる方が殆んどなのだと思います。


そう思った時・・・・
はて?・・神様は何とおっしゃているのだろう・・
エス様は何を教えていらっしゃるのだろう・・・
と、思うのは自然な流れだと思います。


そして次に、・・・
エス様が何をおっしゃているかを知るために、聖書を読む、司祭や牧師の方の話を聞く、聖書について書かれているものを読む・・・などの行動を、大抵の方が起こされるのだと思います。


しかし、聖書を読んでみても、いまいち書いている内容が良くわからない・・・
よし、それなら聖書に書いている事を解説してくれる司祭や牧師の方や聖書学者のお話を聞こう❗・・・・となります。



ところが!

司祭と牧師の方のおっしゃる事が違う・・・
牧師の方と、聖書学者のおっしゃる事が違う・・・
こちらの牧師の方と、あちらの牧師の方のおっしゃる事は180度違う・・・

いったい、どの解説が本当なの?
どの解説が、イエス様の教えなの?
・・・・と、なります。


「これがイエス様の教えです」
「聖書に書いてある事はこうです」

と、いうプロの方の教えが、おびただしい程にあるのが、今のキリスト教の現状です。
こちらのキリスト教と、あちらのキリスト教では、全く違う正反対の教えをしているのが、現在のキリスト教です。




こうなると、信徒側としては、自分で納得出来る教えを「自分」で、選ぶしかありません。

仕方ないから、自分でアレコレ調べて、納得がいく解説を探さなくてはなりません。

どの牧師の方も、聖書学者も、自分達の解釈が正しく、他の牧師の方や聖書学者の解釈は間違えている・・・と、おっしゃるのですから、「判断」は信徒がするしかありません。



「自分の考えでなく神様の教えを・・・」
「自分中心の判断でなく神様中心の価値基準を・」
と、言ったところで、その神様の教えが、これだけプロによって言われる事が違うならば、最終・・・

「自分の考え」で、納得のいく解説を選ぶ。
又、当たり前ですが・・・
「自分中心の判断」でしか納得するものは選べない・・と、いう事になります。


そうしなければ、イエス様の教えを知る事さえも出来ないのです。



私は、自分が腑におちた解説やお話の中の、
「イエス様の教え」にしか従いたくありません。

おそらく、皆様も、そうなのだと思います。


と、いうことは、つまり・・・
最終的には、

「自分の納得」
「自分の意志」
「自分の考え」

どこまでもいっても、そこには、

「自分」があるのだと思います。
(脅しがない限りは・・・)


そして、それは、とても素敵な事だと・・・
私は思っています。




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良い子、悪い子、都合の良い子

ボクは、親や教会の先生の言うことを、
とっても良くきく、良い子。

でも、学校では、先生の言うことを聞かない
悪い子。

ボクは、ホントは、親や教会の先生にとって、
何でも言う事を聞いてくれる、都合の良い子。



ボクは、親や教会の先生を思いやる、
とっても良い子。

でも、お友達と遊ぶ時は、すぐケンカをしてしまう、悪い子。

ボクは、ホントは、親や教会の先生にとって、
いつも自分を思いやってくれる、都合の良い子。



ボクは、親や教会の先生の言う通りにしか動かない、良い子。

でも、習い事のお教室では、指示待ち受け身と叱られる、悪い子。

ボクは、ホンとは、親や教会の先生が、自分の思い通りに動かせる、都合の良い子。





パパ、ママ、先生・・・
ボクは今日から、都合の良い子はやめるね。



お友達とは今まで通り、沢山ケンカして、
そして仲直りして、又ケンカして、仲直りして・・

学校では、先生の言う事を聞いたり聞かなかったりして叱られて、反省して、又叱られて、反省して・・・

習い事では、自分から動いて、失敗して、学習して、又失敗して、学習して・・・


そんなふうにしながら、
大切なお友達を作って、学校では思い出を沢山作って、習い事では沢山学習するね。



ボクは、ホントは嘘は嫌いだから、
パパや、ママや、教会の先生の前でもそうするね。




えっ?
悪い子になった?


違うよ・・・。
パパや、ママや、教会の先生にとって・・・


都合の悪い子になっただけだよ。




パパ、ママ、先生。
安心して。

ボクは、いつもボクだよ。



これが・・・・

ホントのボクだよ。




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どんなに貴方が暗くても・・・イエス様には朗らかな人と同じ。 コメント4

どんなに貴方が自分を責めても、
エス様は貴方をお責めになられない。


どんなに貴方が自分の事が嫌いでも、
エス様は貴方のことを、お嫌いにならない。


どんなに貴方が自分を許せなくても、
エス様は貴方を赦される。


どんなにに貴方が泣いていて、喜べずにいても、
エス様は貴方を見捨てない。


どんなに貴方が暗くても、
エス様には朗らかなあの人も暗い貴方も同じ愛しい人。



自分を責めて、自分が嫌いで、自分を許せなくて、いつも泣いている、暗い貴方のことも、

いつも喜こんでいて、自分が好きで、いつも朗らかな、明るい貴方ののことも、


エス様には、同じ愛しい人。
暗い貴方も明るい貴方も、イエス様の前には同じ。
何もかわらない。

・・・・・・・・、


人間らしく泣け。
人間らしく笑え。
人間らしく悲しめ。
人間らしく喜べ。

人間らしく、人間らしく・・・。


神になるな。
それ以上神に近づくな。

人間を愛した神に応え、
人間らしく生きろ。
神になろうなどとするな。


泣いて、笑って、悲しんで、喜んで、
精一杯、人間らしく生きろ。


人間である自分を捨てるな。


私は・・・・
どこまでも、どこまでも
人間でありたい。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

私は、人間が神のようになろうとした時、心が壊れてしまうのではないかと思っています。
真面目なクリスチャンの方が時に心を病んでしまうのも、誠実な意味で神になろうとして神になれない自分を追い立ててしまうからかも知れないと感じています。
完璧ではない人間が、完璧でなければならないと自分に課したとき、心は壊れてしまう様に感じます。

朗らかで明るく、いつも喜んで全てに感謝している人も素敵ですが、暗くて泣いていて、喜びたくても喜べ無い、感謝したくても感謝出来ない方も、人間らしく、そういう方の姿は私には醜い姿として映りません。

そして、神様は、そういう方と一緒に働かれていらっしゃる様に感じています。

悲しんでいる自分、泣いている自分、喜べない自分、暗い自分を、そのまま神様の前にさらけ出し、神様の前に甘えるしか出来ない私ですが、もう・・仕方ない(-""-;)・・・と思っています。


この散文は、人間として、神様に問いかけながら、生きていきたいという思いから書かせて頂きました。
・・・・・・以下の文は自分への励ましの意味での命令形です。読んで頂いている方への命令形文では無いことを付け加えさせて頂きます。

長い文を最後までお読み下さり、有難うごさいましたm(._.)m

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