metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

清貧ごっこ

貧しい事は、決して恥ではない。
貧しいけれど清い人は沢山いる。
しかし・・・
「貧しさ」そのものは清い事ではない。
ましてや、「貧しい」事は素晴らしい事などでは決してない。



よく、「清貧」を素晴らしい事だとする人がいる。



多分そういう人は、本当は決して貧しく無いのであろう。
「貧しい」という事が、どういう事か知らない人なのであろう。


「貧しい」とは、
今日食べる御飯が無い事である。

「貧しい」とは、
病気になっても病院に行けない事である。

「貧しい」とは、
我が子が飢えていても充分に食事を与えてやれない事である。

「貧しい」とは、
我が子が病気になっても薬を与えてやれない事である。

「貧しい」とは、
教会に行きたくても交通費が無い事ある。

「貧しい」とは、
寒さから身を守る衣服が無い事である。

「貧しい」とは、
明日、飢え死にするかも知れない事である。

「貧しい」とは、
明日、我が子を飢え死にさせてしまうかも知れない事である。
我が子に充分な治療を受けさせてやれず亡くしてしまうかも知れない事である。

「貧しい」とは、
亡き後、厚く弔って貰えない事である。

「貧しい」とは、
身内の亡き後、厚く弔ってやれない事である。


悲しくも、そんな本当の貧困の中にある人達が清いメンタリティーを保たれている状態を「清貧」
と、呼ぶのである。


なのに・・・
自分の身の安全が保証されている状態で、
なにが「清貧」であろうか。


それは、「清貧ごっこ」である。


本当の貧困の中の哀しみを知っている人は、決して
「清貧」など望まない。
ましてや、それが素晴らしい事などという嘘など、
通用しない。



貧困は恥ずかしい事ではない。
しかし、素晴らしい事では決して無い。



「清貧」を良しとする者達は、決して、本当の貧困の中にいる人達の立ち位置には立てないであろう。



本当の貧困の中にいる人達の望みは、
食べて、着て、病の治療が受けれて、ある程度の文化的生活を楽しめる様になる事である。
又、家族に、そういう生活をさせてやれる事である。





「清貧」を良しとする者達よ。
「清貧」を誇る者達よ。


あなた達のその姿勢は、本当の貧しさの中にいる人達への侮辱である。


あなた達が、今日の食事と明日の食事の当てがある状態でいる以上、あなた達が良しとする「清貧」にあなた達は、一生かけてもたどり着けない。


あなた達のしているのは、
「清貧ごっこ」である。




そして・・・・
清貧は、決して素晴らしい事ではない。

哀しい事である。


全ての人が「貧しさ」の中で泣かない世の中であって欲しいと・・・・私は願う。


み国が来ますように・・・・




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邪気が無いのがいい(あなたへのラブレター)

邪気が無いのがいい。

無邪気なのが、いちばんいい。




少々、抜けちゃっていても・・・
少々、トンチンカンプンでも・・・
少々、周りから笑われても・・・

無邪気なのが、いちばんいい。




あちらこちらを恐れたり、
あちらこちらの顔色を見たりせずに、

無邪気なのが、いちばんいい。



小賢しい人は好みじゃないので・・・
小賢しい人は安心出来ないので・・・



ホッとさせてくれる、あなたが好き。



無邪気に話す、あなたが好き。
無邪気に歌う、あなたが好き。
無邪気に笑う、あなたが好き。


あなたが大好き。


無邪気が好き。
あなたが好き。


無邪気なあなたが大好き。



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短い祈り コメント4

目覚めとともに短い祈りをし、
キッチンにむかう。

短い祈りの後、食事の準備をし、
短い祈りの後、食事を頂く。

短い祈りの後、掃除、洗濯、昼と夜の食事の準備、そして雑用をする。

短い祈りの後、家に残した家族に後ろ髪をひかれながら仕事場へむかう。

短い祈り・・私が留守の間、家族を守って下さいと・・・。


短い祈りの後、仕事をし、
仕事が終わって、短い祈りをする。




帰宅後、家族を守って頂いて有難うございましたと、短い祈りをする。


短い祈りとともに、あなたといる。
短い祈りとともに、生活する。


今日一日、無事に終わった事に感謝し、
今日一日、家族を守って下さった事に感謝する。
今日一日、私に沢山親切にしてくれた人の祝福を祈り、苦しみの中にいる人と動物の幸せを願う。
この世にいない人と動物の幸せを願う。

そして、あなたとあなたの愛する人の幸せを願う。



自覚のある過ちと、自覚の無い過ちの赦しを請い、明日は少しマシであるようにと祈る。


言葉にならない全ての思いを祈り、
私の知らない私を知るあなたの前に甘える。


深夜ホッと一息をつき、
短い祈りの後に・・・
眠りにおちる。



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豪雨被害お見舞い申し上げます

豪雨被害にあわれている方、ご家族の皆様
お見舞い申し上げます。

行方不明の方が速く見つかりますように。
救出されますように。
病院にいらっしゃる方が回復されますように。
避難場所にいらっしゃる方の生活と健康が守られますように。
自宅等失われた方が一日も早く、もとの生活に戻れますように。
被害にあわれている、遠く離れた家族の方や友人の方に早く安心が訪れますように。

大切な方を亡くされた方の心が慰められますように。
いつの日か癒されますように。

亡くなられた方の魂が安らかでありますように。

あなたの教会にいる介護者 コメント2

あなたの教会にいる介護者を助けて下さい。

あなたの教会にいる介護者は、
兄弟の誰にも、そっぽを向かれ一人で介護を担っているかも知れません。


あなたの教会にいる介護者は、
自分も病を抱えながら、一人で介護を担っているかも知れません。


あなたの教会にいる介護者は、
非情な仕打ちと理不尽さに、うちひしがれながら孤独のうちに、介護を担っているかも知れません。


どうぞ、あなたの教会にいる介護者を助けて下さい。


非情な仕打ちに一緒に泣き、一緒に怒って下さい。
決して「許しなさい」など言わないで、
一緒に泣いて怒って下さい。


アドバイスやお説教は無用です。


あなたの教会にいる孤独な介護者は、たった一人の理解者を求めています。


あなたの教会にいる介護者は、
病と孤独の中で、闘いながら介護をしています。


「信仰」の話しも、相手が望まない限り、しないで下さい。

もし、一人で居たいと介護者が望むなら、どうぞ、そっとしてあげて下さい。

どうぞ、介護者が必要とすることだけを提供して下さい。

どこまでも、介護者の気持ちと意思を尊重して下さい。


病と孤独のうちにいる介護者が、
一番必要としているのは・・・


たった一人の理解者です。



あなたの教会にいる介護者を助けて下さい。

あなたの教会に、介護者がいないなら、

あなたの教会の外にいる介護者を助けて下さい。




病と孤独のうちにいる介護者は、
たった一人の・・・


たった一人の理解者が欲しいのです。



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お酒に酔う人よりも・・・

お酒に酔っぱらう人よりも、


聖書の言葉に酔っぱらって、


人の時間、
人の労力、
人のお金を搾取する者のほうが、


よっぽど性質(たち)が悪い。




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「良かったね、有難いね」と感じながら関わりたい 「良かったね、有難いね」と言って育てたい

人との関わりの中で、「有難いな」と感じる事は、日常的にあります。
皆様も、日常的に感じられていることと思います。


確かに、人を騙したり、陥れたり、他色々とんでもない人もいますが、大抵は「有難いな」と感じさせて貰える善良な人が殆んどの様に感じます。


過酷な状況の中でも、何とか心が荒まないでいる事が出来るのは、そういう有難い善良な人達のお陰ではないかと感じています。


そして、自分の事だけで無く、子供達に善良な人達が、何かを与えて下さった時、やはり私達は「有難いな」と感じ、「良かったね」と思い、嬉しさを感じます。


私は・・・
そんなふうに感じた時、そのままその気持ちを子供達に伝えたいと思っています。
「良かったね~(^.^) 有難いね」と・・・。


「感謝しなさい」・・・と、教えたり命令したりするのではなく・・・
ただ子供と一緒に「良かったね~(^.^)有難いね(^.^)本当に嬉しいね(^.^)」という自分の気持ちを共有しあうだけで充分だと思うのです。




例えば・・・一例として・・・


二人のクリスチャンホームの子供がいたとします、

学校の課外授業で、二人はお寺と神社に行きました。

そこで、二人のクリスチャンホームの子供はお寺や神社で参拝する事は偶像崇拝だからと、先生に、
「私はクリスチャンなので参拝はしません」
と、言ったとします。
そこで先生は「そうなのね。勿論、参拝しないでいいわよ、知らないでごめんなさいね」と、にこやかに優しく二人の子供達に言ったとします。


その後・・・


一人のクリスチャンホームの子供の親は、それを聞いて、子供に、「良く言った!偉かった!」と、言い子供を自慢に思い、周りのクリスチャンフレンドに子供の武勇伝として、その事を伝えました。
そして、親が自分を自慢していることを知った子供は、自分を誇らしく思ったとします。



そして、もう一人のクリスチャンホームの子供の親は、それを聞いて・・・・
「良かったね~(^.^) 先生、快く受け入れて下さったのね(^.^) 有難いわね。あなたの信仰の自由をちゃんと尊重して大切にして下さったのね。本当に有難いわね。嬉しいね(^.^)、でも謝られたなんて・・私が最初にちゃんと先生にお伝えしなかったのが、いけなかったのね・・申し訳無い事をしたわね・・・」
・・・・と、子供に自分の気持ちを伝えたとします。



もう、どちらの子供が感謝を自然に感じれる大人に成長するか、そして人を大切に思う気持ちが豊かになるかは、火を見るより明らかです。



善良な人との間柄で、「感謝」を感じる事が出来ない人は、神様に「感謝」は出来ないと、私は思っています。

何故なら、「感謝」という気持ちが、どういうものか、その人は知らないからです。

「感謝」という言葉だけ知っていて、本当は自然な実感としての「感謝」は知らないからです。




クリスチャンは「感謝、感謝」と言いながら、感謝出来ない人が多いと言われるのは、そのためではないかと思っています。




私は・・・・
自然で良いのだと思います。
自然にしていれば、ほっておいても人に対して、
「有難いな」という気持ちは湧いてきます。

そして・・・
「感謝しなさい」
「愛しなさい」
「喜びなさい」
・・・・と、言葉で子供に教え命令するよりも、


自分自身が、「有難い、嬉しい、あなたにも何かしたい」と思い感じた事を子供達に伝える・・・。


それだけで、人に感謝し、神様に感謝し、人を大切にし、神様を愛し、自然に喜びを感じれる子供に育つのだと思います。


せせこましい気持ちが子供達に伝染するように、

おおらかな気持ちも子供達に伝染するのだと、私は思います(^.^)



自戒を込めて気を付けたいと思います(^.^)




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