metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

平気で無視される「被介護者」の人権

「被介護者」の人権は、時に平気で無視される。

あちらこちらで・・・
病院で、ショートステイ先で、近所で、自宅で、
時に無視される。

無視する方は、自分でも気が付かずに無視をする。


ドクターに、看護士に人権を無視されるだけでもたまらないのに、時に、介護者に人権を無視される。



少し考えて頂きたい。
私からのお願いであるm(._.)mm(._.)m


ドクターのあなたに考えて頂きたい。
看護士のあなたに考えて頂きたい。
介護者のあなたに考えて頂きたい。


もし、もし介護をしている目の前の人が被介護者でなかったとしたら・・・
あなたは、その人の許可なく、その行動をとったであろうか?
あなたは、その人の許可なく、それを言ったであろうか?
目の前の被介護者が被介護者でなかったとしたら、あなたの行動、言った事に対して、その人はどういう気持ちになられるのか考えた事が、あなたはあるだろうか?


是非、考えて頂きたい。


それが、人が人の尊厳を大切にするという事だと私は思っている。


介護者のあなたが、もし逆の立場であったなら・・
あなたは、自分が言った事を平気で介護者から言われたり、周りに言われて本当に耐えられるだろうか?


人の尊厳を守るという事を、今一度考えて頂きたい



介護の大変さも分からない者が言っている・・と思われるかも知れないが、それは違う。

あまり、プライバシーについて書きたくないが、私は今迄の人生の3分の2を、介護者として生きている。

学生時代から介護者として生きている。
家族の一人を見送り、又すぐに次の介護という感じである。


そういう人は沢山いるであろう。


要介護4・5と言えば、どういう状態か説明せずともわかって頂けることと思う。



しかし、それが原因で、私が不幸だった事は一度もない。

数えきれない幸せと喜びを、被介護者である家族も、介護者である私も、お互い交わしあっている。

そして、喧嘩もする。
大喧嘩も出来る。

どちらかの、心か身体が、いっぱいいっぱいになった時に喧嘩になる。


私はそれで良いと思っている。


どんなに喧嘩しても、お互い「かけがえのない相手」である事には変わり無い。

たとえ、相手の認知機能が落ちていても・・・
である。



喧嘩をしても、感情的になっても、それは被介護者の人権を「無視」した事にはならない。
「疲れ果てて限界に来たこと」と「人権を無視する事」とは違う。
「疲れ果てて限界に来た人」の心には「痛み」がある。



被介護者の人権を無視する者は、「平気で」無視をする。
そこには、無視した事についての「痛み」も何もない。
「痛み」も何もないから被介護者の人権を無視している事にも気が付かない。


荒い神経は、被介護者の魂をズタズタに傷付ける。


被介護者も介護者も、同じ人間である。
あなたと「同じ」人間である。

介護者のあなたがされて嫌な事は、
被介護者も嫌なのである。




介護者も被介護者も全く同じ人間である。

あなたと全く同じである。



もう一度、この事について考えて頂けたら有難い。



被介護者のことが、たまらなく愛しい、私からのお願いである。



追伸:個人名を出せない為、敢えて便宜上、「被介護者」「介護者」「要介護」という一般的な言葉を使いました。もし、この言葉に不快感をお持ちになられた方がいらっしゃいましたら、深くお詫び申し上げますm(._.)m
便宜上使いましたが、私の中では、どの方も個人名の感覚であることを付け加えさせて頂きます、



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