「知っている」という事の、はしたなさ
人によって価値観は色々である。
生まれも育ちも違うのだから当たり前である。
「知っている」という事について言えば・・・
ある人にとっては、「知っている」という事は、素晴らしい事で、何でも「知っている」方が価値があり、立派な事であるとしている。
しかし・・・
ある地方では、「何でも知っている、何でも出来る」事を「はしたなかと(はしたない)」と言い、たしなみの無い見苦しい事としている。
カルト化した教会では、「何でも知っている」事に価値を置く方々や子供達が、多い様に私は感じる。
まるで「知らない事」は恥ずかしい事と感じている方が多い様に感じる。
そして、何でも「知っていなければいけない」と思っていらっしゃる方が多い様に感じる。
特にノンクリスチャンより絶対に真理を知っていなければいけないと感じていらっしゃる方がとても多いと感じる。
お話させて頂いていると、一生懸命「知っている」という事をアピールし、「知らない事」も知っているという事にしなければ恥ずかしいという感じが、ひしひしと伝わる。
必死で肩肘を張っていらっしゃる様子が伝わる。
私は、「知らない事」は、ちっとも恥ずかしい事ではないと思っている。
そして人は、本当は殆ど「何も知らない」と思っている。
「神様ごと」について言えば、本当のところ、人は誰も、とことん「何も知らない」と思っている。
「知りたいと思う事」は、とても素敵な事だと思う。
「知らない」の前提があるから、人は知ることが楽
しい。
何でも知っている人などいるはずもない。
又、人は全てを知ることなど出来無い。
そして「知っている」と思っている事も、実はハズレかも知れない。
だから面白いし楽しい。
私は・・・
いつまでも「知りたい」と思う、何も知らない人でいたいと思う。
目をキラキラさせて、そして時には泣きながら、「どうして? 何で?」と聞いてくる子供の様に、
終わりの日まで「知らない」人・・でありたいと思う。
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