「同情」という気の引き方をするクリスチャン
「常に人の気を引いていないと落ち着かない」という人がいる。
そういう人は、常に、相手をコントロールしていた
い人でもある。
そういう人達は、実に色々な気の引き方を知っている。
小さな子供ならば「泣いて」相手の気を引こうとする。
「泣く」事で、相手をコントロールしようとする。
知恵が少しつきだすと「拗ねて」気を引いたりする。
そして・・・
大人になると、実に様々な気の引き方を行いだす。
不機嫌さをアピールする。
怖そうな自分をアピールする。
何か悩み事があるのかな?をアピールする。
どこか具合が悪いのかな?をアピールする。
・・などなど、様々な「かまってかまって」の、アピール攻撃で気を引こうとする。
仕掛ける相手は、自分がコントロールしたい相手、もしくは自分がコントロール出来そうな相手で、人の良さそうな人を選んで「かまってかまって」のアピールをして気を引こうとする。
アピールであるから、本気で不機嫌なわけでも、怖いわけでも、たいした悩みがあるわけでも、どこか具合が酷く悪いわけでもない。
ただ、かまって貰いたいだけであったり、機嫌を取って欲しいだけであったり、自分の我が儘を通したいだけであったり・・・要するに相手を自分の思い通りにコントロールしたいだけである。
証拠に、甘くない相手には、機嫌良さそうに、優しそうに、元気にそうにするのである。
又、人の気を引いて相手をコントロールしようとする人は、甘くない相手には、最初から近づいていかなかったりする。
不機嫌さのアピールも、怖そうなアピールも、具合が悪いのかな?のアピールも、相手の気を引いてコントロールしたいがための、「手段」以外の何物でもない。
さて・・・。
色々な気の引き方の中で、1番私が性質が悪いな・・・と、思うのが、
「同情」をかう事で相手の気を引き、コントロールしようとする事である。
何故、1番性質が悪いと感じるかというと・・・
「同情をする人」というのは、とても優しく、親切で、善良な人であるからである。
優しく、親切で、善良な人達を相手に、「同情」という手段をもってコントロールしようとするのである。
性質が悪過ぎる・・・と、私は思う(-""-;)
「同情」で気を引いて、相手をコントロールしようとする人は、相手の事など、爪の先ほども大切に思ってなどいない。
そういう人とは、本当の意味で心を通い合わす事など出来ない。
そういう人にとって、自分以外の他者は、自分の欲求を満たす為の道具でしかない。
又、そういう人の言葉は「綺麗事」が多かったりする。
相手がクリスチャンであろうと無かろうと、
牧師であろうと無かろうと、
聖職者であろうと無かろうと、
こういう人には要注意である。
こういう人は、人のエネルギーを奪って生きる人である。
いわゆる、「エネルギーヴァンパイアー」と、言われる人達である。
「私って可哀想でしょ・・・」
「僕って可哀想でしょ・・・」
こういう人にあったら、一目散に逃げよう‼
と私は改たに思う。
本当に「気の毒」な人達は、アピールなどしない。
本当に「深刻」である。
お腹の中からつきあげてくる傷みの共感は、
「同情」を売り物にする人達の心とは、正反対の位置に座する。
「もの乞い」の心は、決して卑しくない。
しかし・・
「同情」を売り物にする者の心は、卑しい。
心と魂だけは、
卑しくはなりたくない・・と。
切に私は思う。
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