嘘です。
神様、私はあなたを信じます。
だから私の心は、いつも喜びで溢れています。
嘘です。
神様、私はあなたを信じます。
だから私の心は、いつも感謝の気持ちで溢れています。
嘘です。
神様、私はあなたを信じます。
だから私の心は、辛さなど感じません。
嘘です。
神様、私はあなたを信じます。
だから私の心は、いつも平穏です。
嘘です。
神様、私はあなたを信じます。
だから私の心は、いつも希望に溢れています。
嘘です。
・・・・・・・・・・・・。
神様、私はあなたを知らない様です。
私は、知らないあなたに嘘ばかりつきました。
本当です。
知らないあなたにだから嘘をつけました。
嘘を告白して、はじめてあなたを知りました。
神様・・・。
私は人間です。
嘘つきな私を助けて下さい。
私は・・・
嘘つきです。
神様・・本当です。
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
私が、この詩を書いた理由は、私の中に、どうしても見たくない自分がいるからです。
クリスチャンがよく聞く言葉に、
喜びなさい。感謝しなさい。辛さは神様からの試練です。柔和でいなさい。などがあります。
その事が、おかしいと言っているわけではありません。
ただ、それが次第に、
喜ばなければならない。感謝しなければならない。辛さは神様からの試練だと思わなければならない。
柔和でいなければならない・・・・・私はクリスチャンなのだから・・・と、殆ど強迫観念に近い思いに変わってきたりする事が多々あります。
「~なければならない」とついた時点で、それは、嘘になってしまうと私は思っています。
喜ばなければならない・・・ということは、
喜んでいないということに他なりません。
感謝しなければならない・・・ということは、
感謝していないということです。
喜びも、感謝も、愛も、しようとして出来るものではありません。
自然に沸き上がる感情です。
これらは命令された時点で、死んでしまいます。
喜びも・・・感謝も・・・・愛も・・・・
命令された時点で死んでしまいます。
そして、これらの命令を実行しようとした結果、、自分の本音を自分で覆い隠してしまうという一番怖い事が起こります。
どんなに、ポジティブな事を言っても、それは嘘で固められたポジティブさです。
聞いていて無理があるのは、そのためだと思っています。
そして人が、こういった「嘘で固められたポジティブさ」を求めて、勇気を貰おうとするのは、他ならぬ自分の本音から救われたいという切ない心許なさからくるのだと私は思っています。
確かに「嘘で固められたポジティブさ」は、一時的には効果があります。
しかし、「嘘で固められたポジティブさ」からくる安心感は、確かなものではないという事も、多くの方が心のどこかで感じていらっしゃるのではないかと思っています。
そして、ここにはまってしまうと、大切なものを失ってしまいます。
それは、「痛みへの共感能力」です。
嘘で固められたポジティブさからくる安心感は、痛みへの共感能力と引き換えでしか、手に入りません。
自分の中の、一番見たくない自分の本音・・・
それは、とても直視出来ない醜いものかも知れません。
しかし・・・この直視出来ない自分の闇に向き合った時・・・
どんなに汚ない闇であったとしても、向き合ったその時点から光が射すのだと私は信じています。
闇を、嘘で固めたポジティブさで隠しても、それは光ではないのだから、闇はどこかから洩れてしまいます。
それならば、闇としっかり向き合って、闇の中に射す一筋の光を、私は見たいと思っています。
私には、まだ向かい合えない闇があります。
いつの日か・・・
この闇と向かい合う勇気を持てる自分になれますように・・・。
闇の中の一筋の強い光に希望をおいて・・・。
あなたの光に希望をおいて・・・。
私に・・・
勇気をお与え下さい。
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