metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

突き詰めれば、どこまでいっても「人」が言っている(コメント2)

突き詰めれば、この世にある人の営みの中の教えは、どこまでいっても「人」が言っている。


「聖書にそう書いている」・・・
誰が言っているのか・・・人が言っている。

「いや聖書は神のことばだ」・・・
そう誰が言っているのか・・・人が言っている。

「聖書に書いてある事は全て真実だ」・・・
そう誰が言ったのか・・・人が言った。


「いや事実私自身が啓示をはっきり聞いた」・・・
「いや、事実私自身が誰に言われなくても感じた」・・・
そう。それだけは、その事において、あなたの紛れも無い真実である。
ただし、「あなたにおいて」である。


それ以外は、どこまでいっても・・・
突き詰めれば、「人」が言っている。



人が、信仰の信じる信じれないをを語る時、


「何を信じているのか」に具体性が無い限り、
受け取る側は、それぞれに自分の信じているものを想定して受け取る。

そして、それはそれぞれに違っていたりする。

「存在」であったり、
「聖書のことば」であったり、
「宗教がたてられた時の教え」であったり、
「個人的啓示」であったり、
「個人的体験」であったりと、

その他のにも、様々な「信仰においての信じる」がある事は避けられない。

人は、自分の信じている事と相手が信じている事が同じだという事を前提にして語りがちである。

「人」が言った、
「人」から教えられた事を、
そしてそれらの「人」から教えられて自分が信じた事を、又、信じたいと切望している事を、キリスト教という同じ宗教だからという理由で、相手も信じ又、信じたいと切望しているとして語りがちである。


「宗教」という枠の中にいるキリスト者と、
「宗教」という枠の外にいるキリスト者
信仰の信じる信じれないを語る時、具体性が無い限り話は噛み合わない。

私は、どこまでいっても「人」が言っている事について「人」が語る時、具体性が無い限り、それは、言葉通り抽象的な話になり、ボヤけてしまう・・・と、感じている。


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今日の記事は、数日前の「信じていますという不思議」の記事を、もう少し具体的にし掘り下げて書きました。
蛇足ですが、「信じていますという不思議」の記事では、何を信じているのかについての具体的な対象は神様の「存在」として書いています。

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