metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「信じています」という不思議(コメント9)

私にとって神様は、物心ついた時から、
いらっしゃる事が当然の存在だった。

誰に教えられた訳でも無いのに、
私にとって神様は、いらっしゃる事が前提だった。

存在を意識しない程に当然いらっしゃる方だった。



そしてそれは、今も変わっていない。



もし「あなたは神様の存在を信じていますか?」
と、聞かれれば・・・・・

「信じているという意識さえも無い、いらして当たり前の存在です」としか答られない。


なので、私とって、
「神の存在を信じます」と、口に出して言うのは
とても苦痛な事である。

「神の存在を信じます」と、いうのは、私にとって
「神の存在を信じていません」ということと同じであるからである。


人は、何かの存在を信じている時は、
信じているという意識は無いのではないかと思う。

それと同じで、私にとって神様の存在は、
信じるとか、信じ無いとかいう存在ではない。
ただ、居る方である。


私には、
「神様の存在を信じています」
「神様を信じます」という言葉が、

「神様の存在を疑っています」
「神様を疑っています」という言葉と同じに聞こえる。


「信じる」と、いうことは、
私にとって、「意志」では無い。


「神様を信じています」と、人が意識する時・・・

本当は、「神様を信じたい、疑いたく無い」
と、いう・・・
「それでも疑わずにいられない・・・」
と、いう、・・・
人としての悲しさを私は感じる。


「信じる」ということは、
本来、無意識の域にあるものだと私は思っている。



それにしても・・・

誰に教えられた訳でも無いのに、私はどうして物心がついた時から、意識もしない程に、
神様は普通にいらっしゃる存在なのだろか・・・?

それを思うと・・・
私は「神様を信じたいけど疑がわずにいられない」・・・
と、いう、人としての人らしい思いに欠けた欠陥人間なのだろか・・・と、感じたりもする。


当たり前に、そこに在る方。
意識もしない程に、そこに在る方。
信じているという意識もなく、そこに在る方。


私にとって、神様とは、そういう存在である。


皆は、どうなのであろうか?

私のこの感覚はおかしいのであろうか?


私は、このような感覚でずっといるので、
「神様を信じます」と、いう言葉に、とてつもない違和感と不思議を、ずっと感じている。


これからも・・・・

おそらく、ずっと感じ続けるのであろうと思う。


けれど私は、
それでも全くかまわない・・・と、
今のままでいたい・・・・・・と、

心の底から思っている。


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