metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「結果」を保証されないと動けないクリスチャン達

もう何十年か前からの現象らしいが、
「そうしたら、絶対にそうなる?」・・・と、聞く子供達が増えてきているらしい。

ちょうど、そのような子供達が大人になる頃と同時に、新興宗教がブームになり、それに伴い、カルト宗教と言われるものがチラホラと問題になり始めた。


とても納得のいく現象である。
しっかりと辻褄があっている。

カルト宗教の特徴のひとつは、
「貴方は◯◯したら、絶対に◯◯になります」という、非常に解りやすいキャッチフレーズを売りにすることである。

「そうしたら、絶対にそうなる?」と、結果の保証を聞きたがる子供が大きくなれば、
「貴方は◯◯したら、絶対に◯◯になります」と、いう宗教に簡単に乗るのは当たり前の事である。


「そうしたら、絶対にそうなる?」と、結果の保証を欲しがるというのは、実は、
「保証が無いなら、それはしたくない!」という事でもある。


「そうしたら、絶対にそうなる?」と子供に聞かれたならば、本来大人は、「それは、やってみなければ分からない」と、本当の事を教えるのが努めである。

しかし、魚心あれば水心・・・
大人は、子供を自分の思い通りに動かしたい欲に負けて、「うん!絶対にそうなるよ!」と、嘘をついたりする。
で・・・現実は、そのようにならない事も多かったりする。



そのように育てられた子供達は、結果を保証されなければ、何事をするにも虚しさを感じてしまう大人に成長してしまう。


しかし・・・
虚しさを感じない方法は、実はひとつしかない。
それは、結果が保証されていなくても、
「目の前の事柄に対して夢中になる事が出来る」
ただ、これだけである。

それが、その事柄を無心に愛する、という事である

無心に、その事柄を愛すれば、結果はどうであれ、人は、その事柄を、せずにはいられなくなるものである。

結果などというのは、まさしく後からついてくるものにすぎない。



信仰も同じである。

結果を保証されなければ、信じれない・・・
というのは、対称そのものを愛しているのでは無い


神様が、イエス様が、約束して下さったから信じる・・・というのは、神様そのものを、イエス様そのものを求めているわけでは無い。


無心に好きになるというのは、そういう事では無い


無心に好きになる、愛するというのは、
約束して下さろうが、して下さらなかろうが、
何の保証が有ろうが、無かろうが、

求めずにはいられない、という事である。
祈らずにはいられない、という事である。

結果というのは、まさしく、その後から付いてきた「結果」にすぎない。


「結果を保証して下さるから信じる」・・・
これでは、まさしく本末転倒である。
又、この発想は商売である。

信仰は商売では無い。


しかし・・・・

「◯◯したら、絶対に◯◯になる!」という保証がないと、全ての事柄が虚しく感じる人が増え続ける限り・・・・

「カルト宗教」という商売は、上手い商売人にかかったら繁盛し続けるであろう。


キリスト教も例外では無い。


これ以上・・・
キリスト教という商売が増え無いようにと、
祈るばかりである。



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