metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「仲の良い」関係と「なあなあ」の関係

「仲の良い」関係と、「なあなあ」の関係は違う。
似ている様で、正反対の位置に座する程違う。


「仲の良い」関係は、澱まない。
又、「仲の良い関係」にある者達は、
それぞれに自分自身の道の踏み外しに対する自覚がある。
自覚があるので、成長もある。
成長する過程において、「仲の良い」関係にある者同士は、静かに見守ったり、時には励ましあったりする。
「仲の良い」関係は、適度に緊張感のある心地良い関係である。



一方、「なあなあ」の関係は、澱む。

「なあなあ」の関係にいる者達は、
自分の道の踏み外しに対する自覚に蓋をする。
又、お互いに蓋をし合ったりする。
なので、いつまでたっても成長しない。
成長しないどころか、後退したりする。
「なあなあ」の関係にある者達は、
自分の道の踏み外しを正当化する。
又、正当化しあう。

自分の道の踏み外しに蓋をしたうえに、正当化をするものだから、当然、外部からクレームが出る。
「なあなあ」の関係にいる者達は、そのクレームに対して傷付き、敵意を持つ。
時には、自分の敵意までもを正当化し、相手に対して「人を許さない優しさの無い人」というレッテルを貼ったりもする。
そして、自分達は「人を許す清い人」として結束を固めたりする。
その結果、ますます自分の道の踏み外しに対して麻痺してしまい、ついには気付く事さえ無くなってしまう。



「なあなあ」の関係にある者達は、このようにして、最初の自分の道の踏み外しについては、無かった事にしてしまう。
かくして、「なあなあ」の関係にある者達は、成長が止まる。


「なあなあ」の関係は、適度な緊張感も無いだらしなく弛んだ、気持ちの良い関係である。



「仲の良い」関係も、「なあなあ」の関係も、
気持ちの良い関係・・・というところは同じである
故に、「なあなあ」の関係を「仲の良い」関係だと
履き違えてしまう人達もいる。



しかし、「なあなあ」の関係と、「仲の良い」関係は、道の踏み外し(罪)に対して自覚があるか無いかという最初の出発点から決定的に違う。




クリスチャンと呼ばれる人達は、
この「なあなあ」の関係にある人達が多かったりする。


「なあなあ」の関係にある為に、外部のコミュニティからクレームがくる事が多かったりする。

「なあなあ」の関係にある為に、外部の全うなクレームに対して、自分達を正当化し、ますます、外部からの「風当たり」が強くなったりする。

人の大切なものを搾取しても、「なあなあ」の関係にある者達は決して自分の道の踏み外しに対してむき合おうとはしない。
お互い様だから許し合わないのがダメだと言ったりもする。


決して「お互い様」ではない。


「仲の良い」関係にある者達には、反省があり、
次回、同じ道の踏み外しをしない様にと気を付ける

一方「なあなあ」の関係にある者達は、
そこに反省は無く敵意を持つ為、道の踏み外しから目をそらし、同じ事を繰り返す。
簡単に言えば、反省はせず逆恨みをして、同じ間違いを延々と繰り返す。



しかし・・・・

この「なあなあ」の関係の居心地の良さに馴れてしまうと人はなかなか、そこから脱け出す事は難しい


勇気を持つことである。


「なあなあ」の関係にある人達は、居心地が良いかも知れないが・・・
常にどこか、得体の知れない焦りと、気だるさや無気力感と戦わなければならないという、デメリットを本当はどこかで感じている筈である。



勇気を持って、「なあなあ」の関係から脱け出し、
「仲の良い」関係を築く者達と歩きだせば、

今、貴方が感じている得体の知れない焦りの正体が見えだし、気だるさや虚しさや無気力から解放される。

「風当たり」も今より随分少なくなり、
同時に、無駄に傷付く事も少なくなってくる。
ムダに傷付く事も少なくなるから、常にヒステリックでいる自分に苦しむ事も少なくなる。


・・・・・と、私は思う。



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