特権を喜ぶクリスチャン
クリスチャンの中には「特権」を喜ぶタイプの人達がいる。
「神に与えられた、この特権に感謝します」
「クリスチャンに与えられた、この特権に感謝します」
「この場で、皆さんにこうして説教を出来る特権に感謝します」・・・モシモシ・・(^^;(^^;
「特権」とは・・・
特別に与えられた、人より「優越した」権利の事を言う。
言い換えてみれば・・・
特権を喜ぶクリスチャンというのは、目の前の人に向かって、
「あなたより、優越した権利を私は持っています。
あなたより、優越した権利を持っていて嬉しいです」
・・・と、言っているのと同じなのである。
本人にその自覚が有ろうと無かろうと同じなのである。
そして・・・
「あなたも私と同じ方を信じれば、この特権(人より優越した権利)が与えられますよ。私と同じ価値観を持てば、この特権が与えられますよ」
・・・と、くる。
この言葉に惹かれて寄ってくるのは、
「人より優越した権利」を持ちたい人だけである。
これは、客観的に見て、どう差し引いても好ましく無い人柄である事は否めない様に感じている。
又、善良な人というのは大抵、「人より優越した権利」などに魅力を感じないし、欲しいとも思わない。
これは、私が納得している聖書解釈ではあるが・・
イエス様がいらした時点で、
ユダヤ人の特権も、今クリスチャンと言われる人達の特権も無くなっているのである。
唯一特権があるとすれば、社会の底辺で虐げられ、社会的に何の特権も持たぬ人達だけに与えられているのである。
社会の底辺で虐げられている人達がクリスチャンで無くても、唯一特権は与えられているのである。
イエス様は何度も、特権意識を戒めていらっしゃる。
選民意識も戒めていらっしゃる。
特権意識と、選民意識は、今クリスチャンと呼ばれる人達が越えなければいけない壁であろうと感じている。
特権意識の強い人は、教会以外のコミュニティーに関わった時に、周りに多大な迷惑をかける。
自分で気が付かなくとも、人にお守りをさせている。
又、時に、酷く和を乱す。
そして、この特権意識というのは、
体罰という名の暴力にも繋がる意識でもあったりする。
その後始末をさせられる側や、被害にあう者からしたら、たまったもではない。
暴力と迄はいかずとも、しっかりとエネルギーヴァンパイアーである。
私は・・・
教会の外で、人に多大な迷惑をかけない為にも、
クリスチャンと呼ばれる人達は、
特権意識にしがみつく自分の心の奥底を勇気を持って見つめ、克服していくのが必須な様な気がしている。
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