赦されるよりも・・・私にとって、ずっと気になる事、大切な事。コメント4
大切に思っている人を傷付けてしまった時、人は、とても落ち込みます。
意図せずに傷付けてしまった場合も、
意図的に傷付けてしまった場合も、
自分の未熟さから傷付けてしまった場合も・・・
人は、大切に思っている人を傷付けた時、かなりに、へこみます。
そんな時、人は自己嫌悪と同時に、傷付けてしまった相手の傷が癒えて欲しいと・・・
それを無意識に強く望みます。
自分が傷付けてしまったにもかかわらず、相手の傷の痛みに、自分も酷く痛みます。
祈りは・・・・
謝る事と同時に、自分が傷付けてしまった相手の傷が、癒える事を、無意識に強く祈っているものだと思います。
「傷付けてしまった自分を赦して下さい」・・という感情は、先ず湧いてきません。
「自分が赦される、赦されない」よりも、相手の傷の方がずっと気になる事柄です。
と、いうよりも、それしか普通、頭に無いものなのではないかと・・・私は思うのです。
それが、一般的な感覚だと私は思うのですが・・・
そう考えると・・・
私はクリスチャンと言われる方の中に、とても違和感のある感覚の方を時々お見かけします。
「過去、自分は様々な悪い事をしていたけれど、神様を信じる事によって自分は神様に赦されたのです
。有り難い事です。感謝です」
と、いう方々です。
物凄く違和感を感じています。
私の感覚では、自分が赦された赦されれて無いは、問題では無いのです。
気になるのは、自分が傷付けてしまった人のその後です。そして、自分が傷付けてしまった人を大切にしている人達の心の傷です。
自分が傷付けてしまった人が、今、幸せなら、それだけで充分で、自分が赦されたとか、赦されていないとかは、どうでも良いのです。
ジョン・ニュートンという人がいます。
「アメイジング・グレイス」の作詞者です。
私は、この人の過去を知り、その後、この詞を読み返した時、ゾォ~っと鳥肌が立ちました。
過去にしてきた事に鳥肌が立ったのでは無く、その過去を踏まえて書かれた詞の内容にゾォ~っと鳥肌が立ったのです。
自分の様な者が赦されて有り難い。
自分の様な者が救われて有り難い。
どうでも良いのです!そんな事は!
まともな感覚の人間ならそんな事より、自分が殺した、傷付けた奴隷の人達の救いの方が、ずっと気になるのではないか・・・と、私は思うのです。
奴隷の人達の魂を思えば、口が裂けても、救われて有り難い、赦されて有り難いという様な種類の言葉は出てきようが無いと、私は思うのです。
奴隷商人をしていた頃と、奴隷商人を辞めて牧師になった時と、表面やする事は変わっても・・・
本質的には、何も変わっていない・・のです。
とても恐いです。
なので、私にとって、ジョン・ニュートンは、ただの、恐い白人のおじさんです。
それと同様に、
「過去自分は散々悪い事をしてきたけれど、神様はそんな自分を赦して下さったのです。有り難い事です!」
・・・・と、いう方々は、私にとって、ただの恐い人です。
「自分の様な者を赦して下さって有り難い」という、その言葉に、昔の悪かった頃と、本質的には何も変わっていないと感じるからです。
傷付けてしまった人の傷の痛みに、もがき苦しむ姿は、その言葉からは見えません。
又、傷付けてしまった人の傷の痛みに、もがき苦しんだ人からは、その言葉は出て来ません。
それは、傷付けてしまった人の傷の痛みに、もがき苦しんだ事のある人は知っています。
聖書の基本は、「人の傷の痛みに対する、はらわたが捩れる程の共感から」だと、私は解釈しています。
「私の様なものを赦して下さったから有難い」
という感覚は、聖書の教えから一番遠い感覚だと私は感じています。
「私の様なものが傷付けてしまった人達を、救って下さったから有難い」
そこにしか・・・
救いは無いように私は感じています。
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最後に、お赦し下さいと祈る事と、私は赦されたと、そこに胡座をかく事は別物だという事を付け加えさせて頂きます。お赦し下さいと祈る事には違和感を感じていません。私もお赦し下さいと祈ります。
今日の記事は、そういう話では無く、別の論点で書かせて頂いた事も付け加えさせて頂きます。
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