コイノイア(穢れをともにする)・シャローム・そしてメタノイア コメント2
今、辛い人は沢山います。
昔も、辛い人は沢山いました。
自分が幸せな時・・・
自分の幸せに、何か後ろめたさを感じてしまうのは私だけでしょうか?
笑いながら、そして楽しみながら、どこかで申し訳なさを感じてしまうのは私だけでしょうか?
コイノイア・・・
この言葉が、クリスチャン同士の交わりや信仰的な交わりを意味するのでは無く「穢れ(汚れ)をも共にする」という意味だと知った時、私はホッとしました。
共にする・・と、いうのは、
違う立場や、結構な立場から、苦しんでいる人に関わるのでは無く、自分も同じ立場、立ち位置で関わる・・という事なのだと・・・。
それが「コイノイア」の正確な意味なのだと・・・。
私は、この事を教えて頂いた時、
とても納得が出来、共感しました。
そして、シャローム。
ただの平和とか平安という意味で無く、シャロームとは「傷付いたところがひとつも無い」という意味なのだと・・・。
なので、100人のうち、99人が幸せでも、1人が泣いていたら、もうそれはシャローム(平和)では無いのだと・・・・。
こちらも、とても納得と共感が出来ました。
これらの事は、「愛という言葉が一度も出てこない聖書」の記事でも紹介させて頂きましたが、その、愛という言葉を一度も使わないで聖書を翻訳された方から教えて頂きました。
この事を教えて下さった聖職者の方は、新共同訳聖書の翻訳メンバーであり、一流の聖書学者でもいらっしゃいます。
ギリシャ語、ヘブライ語も、辞書を引き引きという訳でもなく、そらでポンポンと出て来られる底力と、実力には静かな迫力があり、内容も学説的な事を平たく解かりやすく教えて下さる為、素人でも理解しやすく、とても有難いです。
なので・・・
私が、コイノイアやシャロームについて、お話させて頂くより、この方の書物を読んで頂いた方が分かりやすく確かです。
そして・・・メタノイア。
悔い改めと訳されているメタノイアについては、全く、既定の教えとは異なる事を教えて下さいます。
言語に忠実にしっかりと・・・
方向転換とは、神を信じるということでも、今迄の神を知らない状態から神様第一に方向転換するという事でも無いということを、これくらい聖書の原語に忠実な教えは無いくらい聖書的に、そして言語に忠実に解りやすく教えて下さいます。
そして・・・
私は思うのです。
「教会に来なさい」・・・と、言うよりも、
「いつも喜んでいなさい」・・・と、言うよりも、
「伝導しなさい」・・・と、言うよりも、
「神に感謝しなさい」・・・と、言うよりも、
「従いなさい」・・・と、言うよりも、
「祈りなさい」・・・と、言うよりも、
「~しなければならない」と、言うよりも、
「そうしなければ救われない」と、言うよりも、
泣いている人に、苦しんでいる人に、動けない人に、休養が出来ず心も身体もボロボロになった人に、泥の中でもがき苦しんでいる人に、
クール宅急便で、おかずを送る方が・・・
タクシーを使う事で出費しない様に、車を出す方が・・・
ただ、お話を聞かせて頂く方が・・・
ずっと、ずっと、ずっと大切だと
私は思うのです。
それも、絶対にそれが相手の負担にならない様にデリカシーを忘れずに・・・・
幸せぼけしてしまった状態では、泥の中で苦しんでいる人の存在にさえ気が付かないと思うのです。
自分が、泥の中にいる人を前に、何も出来る事がなく、オロオロするだけの無力な者であったとしても、せめて口で信仰を語る者ではなく、ただただ、泥の中にいる人の心に静かに寄り添わせて貰いたいと思うのです。
何も出来なくても・・・。
ひとりぼっちで、全てを抱え込まなくてはならない苦しさは、私も知っています。
知っていらっしゃる方は多いと思います。
それは・・・
本当に、本当に辛い事です。
幸せな時、幸せ幸せと、幸せぼけしている間は、
イエス様の立ち位置には、自分はいないのだという事を忘れずにいたいと、私は思っています。
愛という言葉を一度も使わないで聖書を訳された方の本や勉強会は、そういう事が基本の内容であり講義です。
月1回のペースで神戸バイブルセンターにて、講義もなさっています。
牧師の先生も一緒に、お勉強とヘルプもなさっていたりします。
もし、ご興味がおありでしたら、是非お運び下さいませ。
カトリックの方もプロテスタントの方も、教派を問わず、お勉強にいらっしゃっていますので、安心して行けるのが有難いです。
最後にコリントの聖句から・・・
「それゆえ、信仰と、希望と、愛(人を大切にする)は、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛(人を大切にすること)である」
コリント1・13:13
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