metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

イエス様の「ぶどうの木」を見てみたい

私はイエス様が、ご自分を例えておっしゃった、
「ぶどうの木」を、見てみたい。
物凄く見たい。


私は、この例えを初めて聞いた時、自分よりも背の高い美しいぶどうの木と、その木に実った美味しそうな葡萄を想像し、ロマンチックな気分に浸るという、まことに、おマヌケな想像の世界で遊んでいた。



まさか・・・
ま・まさか、イエス様のおっしゃった「ぶどうの木」というのが、その時代、パレスチナ地方で、
最も小さい、背丈の低い木だったとは( ゚□゚)!!
それも、どれくらい低いかと言えば・・・
自分の膝丈か、腰丈くらいの丈の木だったとは!!


し・しらなかった。
本当に知らなかった。


と・・・・いう事は・・・
「わたしは、ほんとうのぶどうの木」と、イエス様がおっしゃったぶどうの木は、身をかがめて見る様な、ぶどうの木・・という事である。

その時代の人達は、イエス様が、
「わたしはほんとうのぶどうの木」と、おっしゃった時、身をかがめて見るぶどうの木を想像したということである。


私は、イエス様のおっしゃっる、ぶどうの木が、
パレスチナ地方で一番丈が低く、身をかがめて見る木だと知った時・・・・
そして、イエス様がその木をご自分に例えられたのだと知った時・・・又、イエス様のことが好きになった。

そして・・・やはり痛かった。


エス様は人としてお生まれになられた時、丈の低い者としてお生まれになられたのだと・・・



しかし・・・
その時代に丈の低い者として生まれた者達。
病気や苦しみをかかえる者、身体に麻痺のある者、
悪霊に憑かれた者、貧し過ぎる者。
それ故に、穢れを担う者とされていた人達、にとって、イエス様のこの、「わたしはほんとうのぶどうの木・・・」の例え話は、どれほどの希望であったであろうか、とれほどの救いであったであろうか、と思う。


今の時代でも、苦しみの中に置かれている者達にとって・・
丈の低い状態に置かれている者達にとって・・・
この丈の低いぶどうの木の例え話は、大きな希望であり、救いである。


この丈の低い場所で・・・
この苦しみのある場所で・・・
同じ場所に置かれている者として、イエス様は、大丈夫だ。わたしと繋がっていれば大丈夫だ・・・と言って下さる。


大丈夫だ。
大丈夫だ。


めげずに生きようと思う。



エス様がおっしゃっている。

わたしと繋がっていれば大丈夫だ。




今の時代でも、パレスチナに行けば見れるのかどうなのか分からないけれど・・・

丈の低いぶどうの木を、私は見てみたい。

腰をかがめて見てみたい。


私は、一番背丈が低いという、小さな小さなぶどうの木が、とても愛しい。

見ることが出来るなら・・・

その、ぶどうの木に、私は身をかがめて、
口づけをしたい。



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