metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「へりくだる」?冗談じゃない!その聖書の訳は原語に忠実ではない。

マタイの「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう・・・」
あまりにも有名な聖句である。

そして・・・その理由として、
「わたしは柔和で謙遜な者だから・・」(新共同訳)
「わたしは心優しく、へりくだっているから・・」
(新改訳)  ・・・とくる。


エス様がそうされたように、「謙遜」「へりくだり」をする事が素晴らしいと・・・・
クリスチャンは、そういう人間になる様にと教会は教える。


冗談じゃない❗


人に対して「謙遜する」?
人に対して「へりくだる」?

私は、この行為と心持ちに、とてつもない傲慢さと、根っからの上から目線を感じている。
「謙遜」「へりくだり」は、もともと自分が「上」
だという前提でしか成り立たない。

私は、人にへりくだりなど求めない。
堂々と、そのままでいて欲しい。
お互い、敬意と礼儀があるだけでよい。

相手に、へりくだりを求める人間というのは、権威主義者の人間であると私は思っている。


だからこの、「へりくだって・・・」という教会の教えには首を縦に振れなかったし、振る気もなかった。


そして・・・・
随分たって・・・


このマタイの、「謙遜」とか「へりくだっている」
と訳されているギリシャ語は、ルカのマリア賛歌の「身分の低い」(新共同訳)「卑しい」(新改訳)
と訳されている言葉と、全く同じギリシャ語なのだと教えられた。

そして、原語に忠実なのは、
「身分の低い」「卑しい」と訳されている方なのだと知った。


マリア賛歌では、ちゃんと「身分の低い」「卑しい」と訳し、マタイのイエス様の言葉は、「謙遜」
「へりくだって」・・・と訳してしまっているのである。

どんな言いわけをしても、これは意図的な私的解釈を入れた訳である。
そのまま、原語通りに訳されていない、ということに、言い逃れは出来ない。

なので、このマタイのイエス様の言葉を原語通りに忠実に訳すと・・・

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦
疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で「身分の低い(卑しい)」ものだから・・・・
♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

と・・・なるのだと、教えてもらった。


物凄く納得!である。

そうであれば、聖書の他の箇所のイエス様の言葉の聖句と、何の矛盾もなく繋がる。

何の無理もなく繋がる。




エス様は「へりくだって」などいらっしゃらない

聖書の原語に忠実に訳された言葉を見るなら、
エス様は「へりくだり」など教えていらっしゃらない。


「へりくだり」は傲慢さの裏返しである。


「へりくだり」の傲慢さに気が付かないかぎり、クリスチャンの上から目線は治らない。

この上から目線に気が付かないかぎり、
クリスチャンは「身分の低い(卑しい)」者達を、傷付け続けてしまう。


ひんしゅくを買うのを承知で思い切って言わせて頂く。
多くの教会の中で・・・
「へりくだり」を美徳とする様な、イエス様の教えとは正反対の事が教えられている・・と私は思う。

私は、「教会の教え」ではなく・・・

「イエス様の教え」を知りたい。



躓きながらも私は、これからも、「イエス様の教え」を求め続けていきたい。




ランキングに参加しています(^.^)
下のバーナーをポチッとクリックして応援して頂けると励みになります(*^^*)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村