metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「愛」という言葉が1度も出てこない聖書

「愛」という言葉が1度も出てこない聖書がある。
・・・と、言えば皆様も良くご存知で、お持ちになられている方も多くてらっしゃるのではと思う。
「愛」という言葉は、全て「大切に」・・という言葉で訳されてある。新共同訳を訳された編集委員の方のお一人の個人訳の聖書である。

数ある訳の聖書の中で、私が今、一番納得している聖書で、大好きで愛読させて頂いている。


ちなみに、この聖書では、「罪」という言葉も、「義」という言葉も、そして、「悔い改め」という言葉も出てこない。 違う言葉で訳されてある。

新約の4福音と使徒言行とパウロの書簡の訳なので、正しく言えば聖書と呼ぶのはおかしいのだが、便宜上、聖書と呼ばせて頂く。



聖書といっても本当に色んな訳がある。
新共同訳から口語訳、新改訳からフランシスコ会訳に、聖書学者の方々の個人訳、まだ他色々・・・。
ミルトスのベブライ語対訳も、好きな聖書(便宜上)
のひとつである。


そして・・・思う事がある。


聖書によって・・・そして、その使う聖書の教派によって、言葉の定義が全く違うのだということである。


「愛」「罪」「義」「悔い改め」など他、言葉そのものの定義が、聖書、教派によってバラバラなのである。

こうなると、聖書の言葉に立って・・・などと言っても、その最初の言葉の定義が聖書、教派によって違うのであるから、どれが納得できるかの判断は完全に、牧師の先生や教会側ではなく、信徒側に任されているという事になる。


どの教派も、そして、殆どの牧師の先生が、自分達の言葉の定義こそが、正しく、聖書の言葉に立って
いると、おっしゃる。


と・・・いう事は・・・
定義が違う教派や牧師の先生が、皆、そうおっしゃるのであるから、この、「自分達こそが正しく聖書の言葉に立っている」というセリフは、何のあてにもならず、この言葉には何の意味も無いという事である。


やはり、判断は信徒側にあるという事実が浮き彫りにされるという事である。



これは私が個人的に感じる事ではあるが・・・
「私達こそが正しく聖書の言葉に立っている・・」
と、強調する牧師の先生がいらっしゃる教会程、カルト化している様に感じる。
そして、謙虚さが全く感じられない。


私は・・・
ひとつの教派の言葉の定義を鵜呑みにするのではなく、俯瞰的な視点で、色々な教派や専門家達の話を聞いたり読んだりして判断したいと思っている。

ひとつだけ見て聞いて、それが他の教えより正しく聖書の言葉に立っている・・・と判断するのは、おかしな話である。比べるものが無いのに、どうして正しいと判断できるのであろうか。

カルト色の強い教会程、他を見せない様にする。
又、遠隔コントロールして、信者や子供達に、「他は偽教師だ。うちの教会こそが正しく聖書の言葉に立っている」と吹き込む。

そんなに「自分達の教会の教えこそ聖書の言葉に立っていて正しい」・・・と自信があるなら、遠隔マインドコントロールなどせず堂々と、他も見せれば良いのだ。 それを色々な理由を付けて、情報のシャットアウトをするのは、卑怯である。




これだけ、情報が手に入りやすい時代である。


「我こそが正しく聖書の言葉に立っている」と、皆が言う以上、どれが納得できるかを判断するのは信徒側にかかっている。


聖書解釈の師は、こちらで選ぶ。



師が、変わっていく事もあるかも知れない。

しかし、私は、それを恐れず、出来るだけ俯瞰的な視点で判断し、聖書解釈の師を選んでいきたいと思っている。

私は教派なんてどうでもいい。


教派に囚われている間は、俯瞰的にはなれない。


教派も何も・・全てを取り払って・・・

色の着いたサングラスを外して、聖書と関わりたい
・・・と、思っている。

    

     長々とした文を最後迄お読み下さり、
     有難うございましたm(._.)m


♦追伸♦
ブログ初心者で、まだブログというものが良く分からない為、公人かどうか判断しかねる方の個人名などは、許可を頂けていない状態では控えさせて頂いています。ご了承下さいませm(._.)m



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