喧嘩
喧嘩はしないにこした事はないのかも知れない。
けれど・・・
喧嘩が出来るということは、それだけで幸せな事なのだと私は思っている。
喧嘩が出来るということは、対等な関係であるという基本的な前提がある。
喧嘩をするということは、少なくとも相手に対して対等だという敬意がある。
無視をしない。適当にあしらわない・・・という人間同士の最低限の礼儀を相手に持っているということでもある。
裏を返せば、相手にしない、無視をする、スルーする・・・・というのは、ハッキリ相手に対しての見下しがあるという事である。
見下した相手とは喧嘩は成立しない。
本人が意識するしないに関わらず、喧嘩をしないというのは、ひとつの見下しであることは確かだと私は思っている。
「喧嘩は絶対に駄目だと」正論を振りかざす人というのは、「喧嘩さえしてもらえない」見下された人の怒りと、やるせなさと、もどかしさと、哀しみを知らない人なのかも知れない。
喧嘩するという事は、相手の人間としての存在を否定していないという証拠でもある。
しかし、見下しは、相手の人間としての存在を否定している事に繋がる。
「喧嘩をしない」という事は必ずしも相手を尊重している事と繋がるわけではない。
むしろ、その逆であったりする。
イエス様は、誰ひとりとして見下されていない。
少なくとも私は、聖書の中に、その形跡を見つける事は出来ない。
私は・・・
貴方を強く抱きしめ、哭き声をあげ、愛していると叫びながら、貴方と喧嘩をしたい。
愛している。
だから貴方と喧嘩する。
「喧嘩をしてくれて有難う。」
貴方の言葉が痛すぎる。
貴方を愛してる。
愛している。
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