metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

「聖書に書いてあるから」というクリスチャン

「どうして❓」
・・・と、聞くと、
「聖書に書いてあるから」と、くる。


全然、説得力が無い。


せめて、
「私が勉強した範囲の聖書知識において、それが今の自分は納得がいって、正しいと思うから」

・・・・と、いって貰えないだろうかと思う。
贅沢なお願いだろうか❓
面倒でも、せめてそう言って貰えれば、会話をつなげる事が出来る。


「どういう風に❓どういう理由でその翻訳に納得いってるの❓」と・・・。



聖書といっても、色々な翻訳がある。
メジャーなものから、個人訳迄、沢山ある。
訳によっては正反対の意味になったりする。

貴方が何故、その聖書の翻訳に納得がいったのか、そこから聞かせて貰わなければ納得なんて出来る筈もない。

ましてや、貴方が、貴方の持っている聖書しか読んでいないのであったなら、「聖書に書いてあるから」は、何の意味も持たない。

「こちらの聖書には、こう書いてあるけれど・・」
という会話さえ出来ない。


定本と呼ばれる原典も、写本学者の研究により更新が続き、改定されるなら、「今」わかっている研究においての翻訳において・・・という条件付きの納得しか出来ないのは、誰が考えたってわかる。


今、現在の翻訳に納得していても、10年後、100年後には、写本学者の研究によって、全く正反対の、又は違う意味の訳になっているかも知れないのである。


ユニコーンが良い例である。



切り捨て御免の如く、「聖書に書いてあるから」
と、言われたって、私には、「私、考えるの面倒だから、そういう事でいいでしょう」

・・・・・と、言っているようにしか聞こえない。


だって、話の接穂がないんですもの・・・



「聖書に書いてあるから」という言葉は、聖書に対して、とても不誠実な向き合い方だと私は思う。



「聖書」は、水戸黄門の印籠じゃない。



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