metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

自分が殺される瞬間に、自分を殺すその人を許した人(コメント2)

今日は、クリスチャンの方ではありませんが、私が若い頃に出会って、強烈な感銘を受け、共感をした言葉を綴りたいと思います。

大好きなマハトマ・ガンジーさんの言葉です(^.^)

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

七つの大罪(七つの社会的罪)


1・理念なき政治

2・労働なき富

3・良心なき快楽

4・人格なき学識

5・道徳なき商業

6・人間性なき科学

7・犠牲なき信仰

By マハトマ・ガンジー

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

ん~!!今、あらためて読んでも唸ります。
ブラボー!!です(^o^)

ガンジーさんの言葉は、どれを見ても共感します。
ご興味があれば、是非ガンジー名言を検索されて楽しまれて下さいませ(^.^)

おやすみなさいませ。
皆様の明日が良い日でありますように・・・・


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「信じています」という不思議(コメント9)

私にとって神様は、物心ついた時から、
いらっしゃる事が当然の存在だった。

誰に教えられた訳でも無いのに、
私にとって神様は、いらっしゃる事が前提だった。

存在を意識しない程に当然いらっしゃる方だった。



そしてそれは、今も変わっていない。



もし「あなたは神様の存在を信じていますか?」
と、聞かれれば・・・・・

「信じているという意識さえも無い、いらして当たり前の存在です」としか答られない。


なので、私とって、
「神の存在を信じます」と、口に出して言うのは
とても苦痛な事である。

「神の存在を信じます」と、いうのは、私にとって
「神の存在を信じていません」ということと同じであるからである。


人は、何かの存在を信じている時は、
信じているという意識は無いのではないかと思う。

それと同じで、私にとって神様の存在は、
信じるとか、信じ無いとかいう存在ではない。
ただ、居る方である。


私には、
「神様の存在を信じています」
「神様を信じます」という言葉が、

「神様の存在を疑っています」
「神様を疑っています」という言葉と同じに聞こえる。


「信じる」と、いうことは、
私にとって、「意志」では無い。


「神様を信じています」と、人が意識する時・・・

本当は、「神様を信じたい、疑いたく無い」
と、いう・・・
「それでも疑わずにいられない・・・」
と、いう、・・・
人としての悲しさを私は感じる。


「信じる」ということは、
本来、無意識の域にあるものだと私は思っている。



それにしても・・・

誰に教えられた訳でも無いのに、私はどうして物心がついた時から、意識もしない程に、
神様は普通にいらっしゃる存在なのだろか・・・?

それを思うと・・・
私は「神様を信じたいけど疑がわずにいられない」・・・
と、いう、人としての人らしい思いに欠けた欠陥人間なのだろか・・・と、感じたりもする。


当たり前に、そこに在る方。
意識もしない程に、そこに在る方。
信じているという意識もなく、そこに在る方。


私にとって、神様とは、そういう存在である。


皆は、どうなのであろうか?

私のこの感覚はおかしいのであろうか?


私は、このような感覚でずっといるので、
「神様を信じます」と、いう言葉に、とてつもない違和感と不思議を、ずっと感じている。


これからも・・・・

おそらく、ずっと感じ続けるのであろうと思う。


けれど私は、
それでも全くかまわない・・・と、
今のままでいたい・・・・・・と、

心の底から思っている。


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帰る家

「ただいま」と、家の門を開ける。

一番ホッとする瞬間。


家族と暮らしていても、独り暮しであったとしても
家は、私にとって一番ホッとし、安らぐ場所だ。


家は・・・
どんな時も、安らぐ場所であって欲しい。

家が、軍隊のようであったり、
家が、学校のようであったりして欲しくない。


どんな人にも、家は一番安らぐ場所であって欲しい


・・・・・・。


「ただいま」・・・と、
家の扉を開けれない。


今までそこにいた人が、
「ただいま」と、帰れば、そこにいた人が・・

もう会えない所に行ってしまった時・・・

家は、帰れない場所に変わる。
ドアの扉を開けるのが、一番つらい場所に変わる。

君はもう・・・そこにいない。


・・・・・・。


明日はイースター

一番会いたい人を亡くした悲しみが、
一番会いたい人が、再び戻って来てくれた歓びに変わる日。 希望の日。



けれど・・・・
君は、もうここにはいない。



君は、私といて幸せだっただろうかと、
自分を責める日々から脱け出して、

君が、私達のことを大好きだったと、
君が、私達のことをかけがえなく愛していたと、
それだけは確かなことだったから・・・

君のそんな気持ちを精一杯受けとめる。



私達のことが大好きだった君と、
今は触れることが出来ない君に泣く私達は、

悲しみの淵に沈んだ自分を恋しがる人達の前に、
再び姿を現して下さったイエス様をまえに祈る。


「帰る家を持たない人が、

帰る場所を持てますように」・・・と。


今はいない君と、

一緒に祈る。


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「結果」を保証されないと動けないクリスチャン達

もう何十年か前からの現象らしいが、
「そうしたら、絶対にそうなる?」・・・と、聞く子供達が増えてきているらしい。

ちょうど、そのような子供達が大人になる頃と同時に、新興宗教がブームになり、それに伴い、カルト宗教と言われるものがチラホラと問題になり始めた。


とても納得のいく現象である。
しっかりと辻褄があっている。

カルト宗教の特徴のひとつは、
「貴方は◯◯したら、絶対に◯◯になります」という、非常に解りやすいキャッチフレーズを売りにすることである。

「そうしたら、絶対にそうなる?」と、結果の保証を聞きたがる子供が大きくなれば、
「貴方は◯◯したら、絶対に◯◯になります」と、いう宗教に簡単に乗るのは当たり前の事である。


「そうしたら、絶対にそうなる?」と、結果の保証を欲しがるというのは、実は、
「保証が無いなら、それはしたくない!」という事でもある。


「そうしたら、絶対にそうなる?」と子供に聞かれたならば、本来大人は、「それは、やってみなければ分からない」と、本当の事を教えるのが努めである。

しかし、魚心あれば水心・・・
大人は、子供を自分の思い通りに動かしたい欲に負けて、「うん!絶対にそうなるよ!」と、嘘をついたりする。
で・・・現実は、そのようにならない事も多かったりする。



そのように育てられた子供達は、結果を保証されなければ、何事をするにも虚しさを感じてしまう大人に成長してしまう。


しかし・・・
虚しさを感じない方法は、実はひとつしかない。
それは、結果が保証されていなくても、
「目の前の事柄に対して夢中になる事が出来る」
ただ、これだけである。

それが、その事柄を無心に愛する、という事である

無心に、その事柄を愛すれば、結果はどうであれ、人は、その事柄を、せずにはいられなくなるものである。

結果などというのは、まさしく後からついてくるものにすぎない。



信仰も同じである。

結果を保証されなければ、信じれない・・・
というのは、対称そのものを愛しているのでは無い


神様が、イエス様が、約束して下さったから信じる・・・というのは、神様そのものを、イエス様そのものを求めているわけでは無い。


無心に好きになるというのは、そういう事では無い


無心に好きになる、愛するというのは、
約束して下さろうが、して下さらなかろうが、
何の保証が有ろうが、無かろうが、

求めずにはいられない、という事である。
祈らずにはいられない、という事である。

結果というのは、まさしく、その後から付いてきた「結果」にすぎない。


「結果を保証して下さるから信じる」・・・
これでは、まさしく本末転倒である。
又、この発想は商売である。

信仰は商売では無い。


しかし・・・・

「◯◯したら、絶対に◯◯になる!」という保証がないと、全ての事柄が虚しく感じる人が増え続ける限り・・・・

「カルト宗教」という商売は、上手い商売人にかかったら繁盛し続けるであろう。


キリスト教も例外では無い。


これ以上・・・
キリスト教という商売が増え無いようにと、
祈るばかりである。



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「仲の良い」関係と「なあなあ」の関係

「仲の良い」関係と、「なあなあ」の関係は違う。
似ている様で、正反対の位置に座する程違う。


「仲の良い」関係は、澱まない。
又、「仲の良い関係」にある者達は、
それぞれに自分自身の道の踏み外しに対する自覚がある。
自覚があるので、成長もある。
成長する過程において、「仲の良い」関係にある者同士は、静かに見守ったり、時には励ましあったりする。
「仲の良い」関係は、適度に緊張感のある心地良い関係である。



一方、「なあなあ」の関係は、澱む。

「なあなあ」の関係にいる者達は、
自分の道の踏み外しに対する自覚に蓋をする。
又、お互いに蓋をし合ったりする。
なので、いつまでたっても成長しない。
成長しないどころか、後退したりする。
「なあなあ」の関係にある者達は、
自分の道の踏み外しを正当化する。
又、正当化しあう。

自分の道の踏み外しに蓋をしたうえに、正当化をするものだから、当然、外部からクレームが出る。
「なあなあ」の関係にいる者達は、そのクレームに対して傷付き、敵意を持つ。
時には、自分の敵意までもを正当化し、相手に対して「人を許さない優しさの無い人」というレッテルを貼ったりもする。
そして、自分達は「人を許す清い人」として結束を固めたりする。
その結果、ますます自分の道の踏み外しに対して麻痺してしまい、ついには気付く事さえ無くなってしまう。



「なあなあ」の関係にある者達は、このようにして、最初の自分の道の踏み外しについては、無かった事にしてしまう。
かくして、「なあなあ」の関係にある者達は、成長が止まる。


「なあなあ」の関係は、適度な緊張感も無いだらしなく弛んだ、気持ちの良い関係である。



「仲の良い」関係も、「なあなあ」の関係も、
気持ちの良い関係・・・というところは同じである
故に、「なあなあ」の関係を「仲の良い」関係だと
履き違えてしまう人達もいる。



しかし、「なあなあ」の関係と、「仲の良い」関係は、道の踏み外し(罪)に対して自覚があるか無いかという最初の出発点から決定的に違う。




クリスチャンと呼ばれる人達は、
この「なあなあ」の関係にある人達が多かったりする。


「なあなあ」の関係にある為に、外部のコミュニティからクレームがくる事が多かったりする。

「なあなあ」の関係にある為に、外部の全うなクレームに対して、自分達を正当化し、ますます、外部からの「風当たり」が強くなったりする。

人の大切なものを搾取しても、「なあなあ」の関係にある者達は決して自分の道の踏み外しに対してむき合おうとはしない。
お互い様だから許し合わないのがダメだと言ったりもする。


決して「お互い様」ではない。


「仲の良い」関係にある者達には、反省があり、
次回、同じ道の踏み外しをしない様にと気を付ける

一方「なあなあ」の関係にある者達は、
そこに反省は無く敵意を持つ為、道の踏み外しから目をそらし、同じ事を繰り返す。
簡単に言えば、反省はせず逆恨みをして、同じ間違いを延々と繰り返す。



しかし・・・・

この「なあなあ」の関係の居心地の良さに馴れてしまうと人はなかなか、そこから脱け出す事は難しい


勇気を持つことである。


「なあなあ」の関係にある人達は、居心地が良いかも知れないが・・・
常にどこか、得体の知れない焦りと、気だるさや無気力感と戦わなければならないという、デメリットを本当はどこかで感じている筈である。



勇気を持って、「なあなあ」の関係から脱け出し、
「仲の良い」関係を築く者達と歩きだせば、

今、貴方が感じている得体の知れない焦りの正体が見えだし、気だるさや虚しさや無気力から解放される。

「風当たり」も今より随分少なくなり、
同時に、無駄に傷付く事も少なくなってくる。
ムダに傷付く事も少なくなるから、常にヒステリックでいる自分に苦しむ事も少なくなる。


・・・・・と、私は思う。



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お耳はふたつ、お口はひとつ

教会は、

お家の無いホームレスの人が、
安心して行ける場所であってほしい。


教会は、

身寄りの無いお年寄りが、
安心して行ける場所であってほしい。


教会は、

何日も、お風呂に入る事が出来無い人が、
安心して行ける場所であってほしい。


教会は、

貧しさ故に差別を受けている人が、
安心して行ける場所であってほしい。


教会は、
パパかママがいなくて寂しい思いをしている子供が
安心して行ける場所であってほしい。


教会は、
傷付いて倒れた人が違和感を感じずに、
安心して行ける場所であってほしい。


教会は、
精神や身体を病む人が、
安心して行ける場所であってほしい。



教会の聖職者や長老は、

そんな人達のお話を、
ただ聞いてくれる人であってほしい。
そんな人達に教えるのではなく、
そんな人達から学ぶ人であってほしい。


お耳はふたつ、お口はひとつで
ちょうどいい。




教会は、

そんな人達が、励ましあって助けあって、
又、希望の光をみる場所であってほしい。



教会は・・・

そんな人達が、
安心して行ける場所であってほしい。



そんな教会が

ひとつでも多く増えますように・・・。



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クリスチャンホームの若い君への手紙

クリスチャンホームの若い君へ。


君はいくつなのかな?
中学生?
高校生?
大学生?
20代?

私、君に伝えたい事があるの。
聞いてくれる?


あのね・・・

君の環境の中で、君の精神的自立・経済的自立を
阻もうとする人がいたら、絶対にのっちゃダメだよ。


君の自立を阻もうとするのは、
君のお父さんかも知れないし、
君のお母さんかも知れないし、
君のご両親が親しくしている教会の人かも知れない。

誰だか分からないけれど、絶対にのっちゃダメだよ。

えっ?
君のご両親は、「自立しろ」って仰っている?


あのね、「自立しろ」って言いながら、自立をさせない様にする方法ってあるんだよ。

そういう人達が、どんな風に君の自立を阻むかは、今日は長くなるから書かないけれど、いつか又、君への手紙に書くね。


でもね、これだけは覚えておいて欲しいの。
君のご両親や、その周りの教会の人達が一番怖いのはね・・・

君が精神的、経済的に本当に自立する事なんだよ。

君の自立を怖がる人っていうのはね、
君が自立出来ない時期に「自立しろ」っていうんだよ。
今は自立出来る力を君が持っていない事を、知っていて、わざと、「自立しろ」っていうんだよ。


本当に君の自立や成長を望む人は、絶対にそういう事は言わないんだよ。
静かに君の自立の準備を助けながら、君が自立出来る日が来るのを待つんだよ。


だから・・・・

君が今、自立出来ないのを知っていて「自立しろ」
っていう人は、君の自立を本当は怖がっている人なんだという事を、どこかで覚えていてくれたら嬉しいな・・・。

君が本当に自立する事を怖がる人は、
君が力をつけて、
いざ本当に君が精神的、経済的に自立しようとすると、グズグズ言い出すからね。
決して、気持ちよく自立させてくれないからね。

それに、のっちゃダメだよ。
振り切るんだよ。

君の自立を阻もうとする人は、
実は、ベタ~ッと君に依存している人だからね。

「自立しろ」と言いながら、ベタ~ッと君に依存しているんだよ。


又、いつか、どんな風に君の自立を阻むかお手紙するね。



大丈夫だよ。
大丈夫だからね。
必ず、いつか君は自立出来るからね。


最後にひとつ・・・

精神的に自立している人同士の間柄の助け合いは、悪いものではないんだよ。困っている人のお友達にならせて貰えたりもするんだよ。言葉足らずなのでちょっとややこしいかな?
又、その事についてもいつかお手紙するね。


頑張ってね。

遠い場所から応援しています。

大丈夫だよ。

今日は開封して読んでくれて有難う。

嬉しかったです。

       
        君のことを応援している私より


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