metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

どんなに貴方が暗くても・・・イエス様には朗らかな人と同じ。 コメント4

どんなに貴方が自分を責めても、
エス様は貴方をお責めになられない。


どんなに貴方が自分の事が嫌いでも、
エス様は貴方のことを、お嫌いにならない。


どんなに貴方が自分を許せなくても、
エス様は貴方を赦される。


どんなにに貴方が泣いていて、喜べずにいても、
エス様は貴方を見捨てない。


どんなに貴方が暗くても、
エス様には朗らかなあの人も暗い貴方も同じ愛しい人。



自分を責めて、自分が嫌いで、自分を許せなくて、いつも泣いている、暗い貴方のことも、

いつも喜こんでいて、自分が好きで、いつも朗らかな、明るい貴方ののことも、


エス様には、同じ愛しい人。
暗い貴方も明るい貴方も、イエス様の前には同じ。
何もかわらない。

・・・・・・・・、


人間らしく泣け。
人間らしく笑え。
人間らしく悲しめ。
人間らしく喜べ。

人間らしく、人間らしく・・・。


神になるな。
それ以上神に近づくな。

人間を愛した神に応え、
人間らしく生きろ。
神になろうなどとするな。


泣いて、笑って、悲しんで、喜んで、
精一杯、人間らしく生きろ。


人間である自分を捨てるな。


私は・・・・
どこまでも、どこまでも
人間でありたい。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

私は、人間が神のようになろうとした時、心が壊れてしまうのではないかと思っています。
真面目なクリスチャンの方が時に心を病んでしまうのも、誠実な意味で神になろうとして神になれない自分を追い立ててしまうからかも知れないと感じています。
完璧ではない人間が、完璧でなければならないと自分に課したとき、心は壊れてしまう様に感じます。

朗らかで明るく、いつも喜んで全てに感謝している人も素敵ですが、暗くて泣いていて、喜びたくても喜べ無い、感謝したくても感謝出来ない方も、人間らしく、そういう方の姿は私には醜い姿として映りません。

そして、神様は、そういう方と一緒に働かれていらっしゃる様に感じています。

悲しんでいる自分、泣いている自分、喜べない自分、暗い自分を、そのまま神様の前にさらけ出し、神様の前に甘えるしか出来ない私ですが、もう・・仕方ない(-""-;)・・・と思っています。


この散文は、人間として、神様に問いかけながら、生きていきたいという思いから書かせて頂きました。
・・・・・・以下の文は自分への励ましの意味での命令形です。読んで頂いている方への命令形文では無いことを付け加えさせて頂きます。

長い文を最後までお読み下さり、有難うごさいましたm(._.)m

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


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「子沢山」は、おめでたい事ではあるが、偉い事でも自慢出来る事でもない

クリスチャンホームは、子沢山のご家庭が比較的多いというのは周知の事実です。


子供が沢山いるという事・・・
それじたいは、何も非難される事ではありません。
おめでたい事であり、幸せな事だと思います。


ところが、子沢山のクリスチャンの親の中には、一人っ子、又は、二人兄弟のご家庭の事を遠回しに、非難なさる方が少なからず、いらっしゃいます。
又、さりげなく子沢山を自慢なさる方が少なからずいらっしゃいます。


一人っ子は、甘やかされて育てられているから駄目。
兄弟の少ない家庭は、小さい子供の面倒をみれないから駄目。


その点、うちは、兄弟が多いから甘やかされていないので打たれ強いから、将来、社会に出て上の人から見込みありと思われるはず。
小さい子供の面倒も見ているので、優しさもリーダーシップも育つ。
又、下の子供達は横の関係だけでなく、上との関係の持ち方を小さい時から知っているから得。
一人っ子の子供や兄弟の少ない家庭の子供は、将来、社会性がない人間に育つ・・・・。


この調子で、滔々とお話になられます。


私としては・・・・
ヒヤヒヤするのです。


その話を聞かされている、目の前の老婦人のお子様は、お嬢様が不妊で悩まれて、何年も病院に通われた後、お子様を諦めたという悲しみを持たれている方かも知れないのです。


その話を聞かされている、目の前の女性の妹は、最近筋腫の手術で、二人目の出産は諦められた方かも知れないのです。


その話を聞かされている、目の前の奥様は、やっと授かった赤ちゃんを流産で亡くし、傷が癒えていない奥様かも知れないのです。


女性なら良くご存知と思いますが、色んな事情で出産を諦められた女性は非常に多いのです。
皆様のお知り合いにも一人か二人はいらっしゃる事と思います。
又は身内の中に、いらっしゃるかも知れません。
私の身内にもいます。


お子様を沢山出産されたのは、嬉しい事であられたかも知れません。
お子様が沢山いらっしゃって幸せでいらっしゃるかも知れません。

それはそれで、とても喜ばしい事です。

しかし、
お子様がお一人の親御さんは、貴方の知らない幸せを知っていらっしゃいます。
お子様が少ない親御さんは、あなたの知らない幸せな日常生活を送っていらっしゃるのです。

そして、一人っ子の子供さんは大切に育てられ、教育も行き届き、社会性のある大人に育ち、伴侶にも大切にされ幸せな生活を送っていらっしゃいます。

兄弟の少ない子供達も、社会で目上の方に可愛がられ、目下のものに慕われていらっしゃる方は、ごまんといます。

一人っ子であろうが、兄弟が少なかろうが、兄弟が多かろうが、将来の社会性やリーダーシップや上下関係に支障が出る人は出るし、出ない人は出ません。

社会性やリーダーシップと兄弟の数は全く関係ないのです。


むしろ関係があるのは、親の教育や価値観かも知れません。

それに、一人っ子であろうが兄弟の多い子であろうが、甘やかされている子は甘やかされているし、甘やかされていない子は、きっちり丁寧に大切に躾られています。


子沢山は、嬉しい事ではあります。
しかし、たがらといって、貴方が偉いわけでも立派なわけでもありません。
ましてや、自慢出来る質のものではありません。

神様がお決めになった事を自慢されるのは、もうヤメになさいませんか?


そして神様は・・・
胎に恵まれない女性に、度に気を留められていらっしゃいます。
一緒に痛まれ、胎を開かれたりもしています。
又、胎に恵まれない女性を祝福していらっしゃいます。


もう・・・本当に子沢山を自慢して、一人っ子や兄弟の少ないご家庭をさりげなく、こき下ろすのは止めませんか?
如何でしょうか?



最後に「毒」をひとつ。


子沢山は良いけれど・・・
産むより育てる方が大変で大切だと私は思っています。

貴方が子沢山を自慢されている、その端で、
「ほったらかしパパとママ」
「野放しパパとママ」
・・・・という異名をつけられていませんか?
子供達が可哀想です。
貴方が、一人っ子や兄弟が少ないご家庭のこき下ろしを止めて、ご自分のお子様に目を向けらたら、その異名も撤回される事と思います。


僭越ながら、お気をつけあそばせ。




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両極端の聖書の言葉を上手に利用する牧師やリーダー達 コメント4

♦親に従いなさい。
♦わたしが来たのは、人をその父親から、むすめをその母親から、嫁をそのしゅうとめから切り分けるためであり、こうして、自分の家族の者が敵対するようになる。


♦人を裁くな。
♦世があなたによって裁かれるはずなのに、・・



♦許しなさい。
♦戒めなさい。


聖書には、正反対の事が書いてあるのは皆様も、良くご存知のとおりである。



親に従うのか、敵対するのか、どちらの行動を取るかの判断基準は、「どういう親なのか」という前提の基に判断するように聖書は教えている。



又、裁くのか、裁かないのかも、「相手がどういう事をしたのか」という前提の基に判断するように聖書は教えている。


許しなさい。戒めなさい。も然りである。
上記と同じ判断基準を聖書は教えている。



そういう意味では、聖書はとても現実的だなぁと、私は思う。

世の中の事は、全て相対的な関係で成り立っているのだから、取る行動も、相手によって変わるのは、当たり前の事である。
聖書はちゃんと、そんな現実的な事を教えてくれている。・・・と、私は思う。





ところが・・・
とんでもない牧師さんや、リーダーがいたりする。


戒めなければならない相手対して、許しなさいと教えたり・・・
許さなければならない相手を戒めたり・・・


従ってはいけない親やリーダーに従わせたり・・・
従ったほうが良い親やリーダーを排除したり・・・


裁かれなければならない人を擁護したり・・・
裁いてはならない人を裁いたり・・・・




聖書に書かれている正反対の言葉を上手に利用して、やりたい放題をする。


では、どうやって、聖書の中の正反対の言葉を利用して、やりたい放題の牧師やリーダーを見抜くのか・・・


これは、私の私見ではあるが・・・

「上の権威には従いなさい。牧師は神から与えられた権威であるから牧師である私に従いなさい。リーダーに従いなさい。批判してはならない。聖書にそう書いてあります!!」


これを強調する教会は、まず間違いなく、聖書の正反対の言葉を利用して、あなたを食い物にする。


・・・・・。


聖書には、どういう牧師やリーダーに従えば良いのかちゃんと書いてある。
どういう権威に従がえば良いのかちゃんと書いてある。

「聖書に書いてあります!」
と、いう言葉に騙されてはいけない。

その牧師は、どういう権威に従えば良いのかを、やはり聖書の中の正反対の言葉を持ってきて教える。




私に従いなさい!
聖書にそう書いてあるから!
聖書の言葉に従わなければ貴方は滅びます!


この3点セットが出てきたら、
その牧師は、聖書の両極端の言葉を利用して、自分の我欲を満たそうとしている。・・・と、私は思う。


その牧師は貴方の事など本当は爪の先ほども大切にしていない。


そして、その牧師は、そんな自分の我欲にさえ自分で気付けていない。


騙されてはいけない。

下手をすると、貴方が破滅する。


・・・・・・・・・と、私はかなりの確信を持って、そう思う。



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人の弱味につけこむクリスチャン コメント2

人は誰でも弱味を持っている。
弱味の無い人などいないのでは無いだろかと思う。

そして・・・
その弱味につけこんでくる人達というのがいる。



人の弱味につけこまない人は、絶対につけこむような事はしない。
しかし、人の弱味につけこむ人というのは、日常的に人の弱味につけこんでいる。



クリスチャンであってもなくても、そういう人達はいる。
不思議と、そういう人達は、そういう人達同士で集まっている。



人の弱味につけこむ人達というのは、実に鋭い嗅覚で、人の弱味を敏感に察知する。
そして、その弱味につけこんでくる。

弱味とは、厄介なもので、その人にとって、とても大切にしているものであることが多い。
大切にしているものだから弱味になる。


子供や伴侶や親や恋人などが大切なら、それが弱味になる。
真面目さを大切にしているなら、それが弱味になる。
誠実さを大切にしているなら、それが弱味になる。
優しさを大切にしているなら、それが弱味になる。
仕事を大切にしているなら、それが弱味になる。
信仰を大切にしているなら、それが弱味なる。
自分が大切にしていることの全てが弱味になる。


「人の弱味につけこむ人達」というのは、実に、その人が何を大切にしているか良く知っている。

つけこみ方も実に上手い。

皆様は、弱味につけこまれた事はおありだろうか?


皆様は、シャキッとなさっているので、そんなご経験は無いかも知れない・・・
私は・・・・本当にポォ~としているので、何度も弱味につけこまれた経験がある。
情けない限りである。


流石に、何度かそんな嫌な経験をして、対処法を学習させて貰った。


大切にしているものを捨てれば良いのだと学んだ。


子供や伴侶や親や恋人に危害を加えるというなら、一切を捨てて、危害を加えるというその人から離れれば良いのである。相手は一切を捨てられないだろうと思うから、脅してくるのである。
(これは比較的平和な状況においての話です。戦争などの状況においては当てはまりません)



真面目さを大切ににしている人は、真面目さを捨てれば良いのである。
相手は、貴方が真面目に対処するだろうと知っているから、無理難題を言ってつけこんでくるのである。


誠実さを大切にしているなら誠実さを捨てれば良いのである。
相手は、貴方が誠実にしか関わらないだろうと知っているから平気で厚かましい事をしてくるのである。


優しさを大切にしているなら、優しさを捨てれば良いのである。
相手は、貴方にどんな事をしても優しく対応してくれると知っているから、平気で無礼な事をしてくるのである。


仕事を大切ににしているなら、仕事を捨てれば良いのである。
相手は、貴方が仕事を捨てられないと知っているから仕事を盾に強迫してくるのである。
貴方が仕事を捨てても構わないと腹を決めた時、不思議と事態は好転する。



信仰を大切にしているなら、信仰を捨てる「ふり」
をすれば良いのである。
もしくは自分一人の事であれば命を捨てるのも有りかも知れない。
相手は、貴方が絶対に信仰を捨てることは出来無い事を知っているから強迫してくるのである。
命は捨てれないだろうと知っているから強迫してくるのである。
信仰は、いくら捨てた「ふり」をしても、しっかり貴方の内に根付いている。
信仰は、魂に根付いているから、自分が捨てない限り、誰にも捨てさせる事は出来ない。
そんな事も知らないで強迫してくるのであるから「ふり」をしておけば良いのである。
「ふり」が上手ければ、相手より貴方の方が一枚うわて、である。




真面目さも、誠実さも、優しさも、とても素敵な美徳である。

しかし、それを贈るのは、相手によりけりである。

「人の弱味につけこむ人」に、そんな素敵なものを贈っても、まさに豚に真珠である。


相手は、まともに受け取ることは出来無い。


「しめしめ上手くいった」と悪い成功体験をして、又次の獲物の処に行くだけである。

被害者が出るだけである。


私は、こんな簡単な事を知らず長い間、煮え湯を飲まされていた。
本当に情けなく思う。世間知らずのおバカさんなのである。




そして・・・

何故か、一部の教会には、「人の弱味につけこむ人達」が集まっている。

こういう教会で、何か辛い・・・
と感じる事があったなら、弱味につけこまれていないだろうか?という一歩引いた視点で教会と自分を観てみるのも有りかも知れない。


そして、自分の弱味は何なのか・・・
しっかり向き合ってみるのも悪くないのではないか・・・・と、私は思う。



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好きな事を仕事にしていて、何が不満なのであろうか。

私は、好きな事を仕事にしています。
好きな事を仕事にして、生計を立てています。

私は、その事じたいに、有り難さを感じると同時に、少しの引け目も感じています。


生きていく為の仕事は、必ずしも自分のしたい仕事であるとは限りません。
自分にとって合わない仕事であっても、生きていく為に日々働くというのは珍しくない・・・というより普通の事なのだと思います。


私の場合は、大好きな事が仕事になっていた・・・という感じです。

有難く感謝な事なのに何故、引け目を感じるかというと、私が好きな事を仕事に出来たのは、何ひとつ私の力で出来た事では無いからです。


私の仕事は小さい頃からの下積みと訓練を必要とする仕事です。

その訓練をさせてくれたのは両親です。
好きな事ならと、何の恩も着せず見返りも求めず、たださせてくれました。

そして、私を長く訓練して下さった恩師・・・


私が子供の頃から大人になる迄、地道に地味な訓練を頑張ったと言って下さる方もいますが、所詮好きな事。好きな事なら私でなくても誰だって頑張れます。
そして、頑張れる環境を与えて貰ったのですから、条件さえ揃えば、どんな人でも頑張れるのだと思います。


ですから、今、私が大好きな事を仕事に出来たのは、両親のお陰であり、恩師のお陰であり、頑張れる環境を与えてくれた全ての人やもののお陰です。

例のごとくポォ~と好きな事に夢中になっていたら、それが仕事になっていたのですから・・・・・
それも、皆のお陰で仕事になっていたのですから、引け目を感じ無いわけがありません。


勿論、仕事ですから大変な事は頻繁にあります。
それは、どんな仕事でも同じですし、当たり前の事です。




そういう意味では・・・
「牧師」という職業も、自分が好きで選んだ仕事だと思います。

時々私は、「牧師という仕事がいかに大変か」という事を切々とお話になる牧師の方に出会います。


その度、私は、「自分が好きで選んだ仕事ではないか」・・・・と思ってしまいます。
経済的に苦しかろうと、教会内のトラブルで大変であろうと、信徒との関係が大変であろうと、牧師という仕事が世の中に理解されにくい仕事であろうと・・・・・
「自分が好きでしている仕事ではないか」と、思ってしまいます。


牧師という仕事が、他の仕事と比べて、いかに大変でストレスが多いか・・・という話を聞いていると、私は、同じ好きな事を仕事にした人間として、とても嫌な気分になります。


牧師の仕事だけが他の仕事に比べ特別に大変なわけではありません。
どんな仕事も大変です。
どんな仕事も同じです。
どんな仕事も並々ならぬストレスは、つきものです。


どうしてそんなに大変大変と、人にアピールしたいのかと。とても不思議に思います。
そして、そういう事をおっしゃる牧師の方は、とても不満気にお話しになられます。

そんなに不満ならお辞めになれば良いのにと思ってしまいます。


牧師になるにも、実に多くの方のお陰でなられたのです。自分の力で牧師という好きな仕事につけたわけではありません。

そこは私と同じです。


好きな仕事につけた事に感謝こそすれ、不満を持つ理由などあろう筈がありません。



多くの方々のお陰で、好きな仕事に付けたのなら・・・

後は、誠実に仕事に向かい合い、少しでも人の幸せの役にたてる様に、恩返しが出来る様に、誠実に仕事と向かい合いたいと思っています。

それが、好きな事を仕事にさせて下さった神様への応答だと思っています。


そしてそれは、どんな仕事でも、同じ事なのだと思っています。



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私は信仰について、あまり深く考えません。コメント2

私は信仰について、あまり深く考えません。

心の琴線に触れたことだけが、私にとって真実です。

エス様の生涯を想うときの哀しさと、
マリア様の生涯を想うときの痛さと悲しみだけが、私にとって真実です。


救われるとか、選らばれたとか、クリスチャンだとか、クリスチャンではないとか、私はあまり関心がありません。

エス様の悲しみだけが私の真実です。
マリア様の傷みだけが私の真実です。

エス様とマリア様の悲しみと傷みに泣く自分の心だけが、私にとって真実です。


悲しみと傷みなのに・・・

私は、そこから深い安らぎを得ます。
私の希望は、そこから生まれます。


悲しみと傷みと絶望からしか、希望は生まれない様な気がしています。

悲しみと傷みと絶望が、深ければ深いほど、希望の光はたしかものになるように感じています。


エス様とマリア様の悲しみと傷みと絶望は、私にとって、希望の光が確かなものだという確信を与えてくれます。


上手く、言葉で表現出来ません。
言葉にしたとたんに、嘘っぽくなってしまいます。
言葉の限界を感じます。



私にとって、イエス様の悲しみと傷みだけが真実です。
私にとって、マリア様の悲しみと絶望だけが真実です。



それだけが・・・
私にとっての真実です。




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頭で聖書の言葉を知るよりも・・・コメント3

聖書には、価値観の具体的な例が沢山出てきます。

聖書を読んで、その価値観を知るという方も多いのかも知れません。
それはそれで良いのかも知れません。

しかし、全く聖書を読んだ事が無いという方が、聖書の価値観と同じ価値観を持ってらっしゃる・・・という事実を知る事が、私は良くあります。
皆様は、如何でしょうか?


実は、私自身も、普段思っていた事や、考えていた事と、全く同じ事が聖書に書いてあり驚く・・・と、いう経験を何度もしています。


聖書を全く読んだ事の無い友人とお話していても、その友人の価値観が、聖書に書いてある事と同じ・・・という経験も何度もあります。


と、いうよりも、私の周りの殆どの友人や、キリスト教の信者で無い方の価値観が、聖書に書いてある事と同じ・・・である事が殆どです。


私もそうなのですが、私の友人や周りの人達も、実生活の中で、何か問題や疑問にぶち当たり、一生懸命考えたり、越えたりする中で出た答や価値観が、後で、聖書を読むと同じ事が書いてあった・・・という感じです。

特に、箴言に書かれている事などは、私も含め、気持ち悪い程、実生活で出した答と同じ事が書かれていたりするという経験は、多くの方が、お持ちでらっしゃることと思います。


それは、図らずしも、
聖書を読む前に・・・
聖書の言葉を知る前に・・・
実生活の中で実感として聖書の言葉を感じている・・・と、いう事になります。


だから私は思うのです。


ノンクリスチャンの方に、いったい今更、何を教えようというのでしょうか?


ノンクリスチャンの方は、何かを教えようとしているクリスチャンより、ずっとずっと実感として、
聖書の言葉を体感しています。
ずっとずっと、実感として聖書の言葉を知っています。


「人に何かを教えたい」という傲慢な欲望から開放されない限り、クリスチャンの勘違いと、人に対する無礼さは、永遠になくならないと、私は思っています。


本当に人に何かを教えている人というのは、「人に教えたい」という欲望から開放された人か、もともと「人に教えたい」という気持ちを持っていないという資質の持ち主だけです。

そういう人だけが、「人に教えず」、知らず知らずに、「人に何かを伝えている人」です。


どちらにしても、頭でしか聖書を理解していない人には、実生活の中で聖書の言葉を体感し続けている人に、何も教える事は出来ません。


何も、伝える事は出来ません。



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