metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

聖書教育が仇となるとき

人に暴力をふるってはいけないのは、
暴力をふるわれた人が傷つくからである。
身体は治っても、心に一生治らない傷が残るかも知れないからである。

「聖書に書いてあるから」、人に暴力をふるってはいけないのではない。




人の物を盗んではいけないのは、
盗まれた人が被害を被って困るからである。

「聖書に書いてあるから」、人の物を盗んではいけないのではない。




嘘をついてはいけないのは、
嘘も情報で、嘘の情報を信じて動いた人に物質的損害と、精神的な傷を負わすからである。

「聖書に書いてあるから」、嘘をついてはいけないのではない。




人に感謝するのは、
人に何かをして貰って、自然に有難いと思うからである。

「聖書に書いてあるから」、人に感謝するのではない。





神様に感謝するのは、
神様に色々頂いて、有難いと自然に思うからである。

「聖書に書いてあるから」、神様に感謝するのではない。





関係性の中の温かい感情の無い決まり事は、ただの決まり事でしか無い。
しかし、この世は人間、動物、植物、自然、全てが関係性の中で成り立っている。
子供には、関係性の中の温かい感情を教えない限り
その子は将来、人とのコミュニケーションに苦しむだろう。


「聖書に書いてあるから」という、事しか教えないでいると、その子供は、他者との関係性が分からない子に育ってしまう。

そして、ナルシスティックで、独り善がりを特徴とした大人になってしまう。


全ての人は、他者との関係性の中で生きている。



クリスチャン家庭の子供達を思う時・・・・・
聖書教育が仇にならない様にと願うばかりである。



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エネルギーを吸いとられる教会

皆様は黒人霊歌はお好きでしょうか?
私は大好きです。

有名なところで「深き河」
あと、「罪つくり」「ボーイ・ボーイ」「みんなで刈りとろう」・・そして「牧師とどれい」など・・

どの歌も、私の心に響きます。




ところで・・・
クリスチャンの方で、教会に行かれるがゆえに、心が疲れてしまう・・という方はいらっしゃらないでしょうか?

又、聖書を頑張って読むがゆえに、心が疲れてしまうという方は・・・・・?

そして、牧師さんの説教を聞いて実行しようとするがゆえに、心が疲れてしまうという方はいらっしゃらないでしょうか?


エネルギーを吸いとられている様な気がする事は無いでしょうか?



もし・・・もしそうだとしたら・・・
これは私の持論ですが・・・。

その教会にはイエス様の福音はありません。どんなに福音を語っていてもです。

その牧師さんの説教は、イエス様の福音から遠く離れています。どんなに聖書的な説教であってもです。

そして・・・聖書を読んだからといって、その、心の疲れから解放される事はありません。


エネルギーを吸いとられるだけです。
そこにいても、貴方が、もともと頂いていた「イエス様の種」の芽が生き生きと育つ事はありません。
それどころか、育った芽も枯れてしまいます。



エネルギーを頂ける場所は他にあります。


「イエス様の福音を語る人達」ではなく、
「イエス様の福音を生きている人達」の中に行けばエネルギーは頂けます。



「イエス様の福音を生きている人達」は、聖書の言葉を知らない人達かも知れません。
教会にも行かない人達かも知れません。
キリスト教も知らない人達かも知れません。


教会も行かず、聖書の言葉をも知らず、キリスト教も知らない人達。
けれど「イエス様の福音を生きている人達」


教会に真面目に行き、聖書の毎日読み、牧師さんの説教を聞いている人達より、イエス様を慰めている人達。


そういう人達の中に身を置いた時・・・
生きるエネルギーは湧いてきます。





最後に、「イエス様の福音を生きている」人達の歌を書いて終わります。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

「牧師とどれい」

         by 黒人霊歌 詞ジョー・ヒル



牧師がおごそかに 天国を語るとき
俺たちは腹がへる そこで牧師が猫なで声で

★お待ち もうすぐだ 
 天国へいく日が来る
 働け がまんせ
 死んだらあの世でたべられる



俺たちが幸せを この世で求むれば
そこで奴らの目が光る 死んだら地獄ゆき

★(くり返し)




万国の労働者 さあ固く腕をくめ
勝利の日あいつらに 俺たちの歌ううた

お行き 天国へ
そこで祈るがよい
俺たちはこの世で 幸せをつくるのだ


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

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人を侮る牧師達

真剣に物事を考えている人を、
侮ってはいけません。


知らない事を一生懸命勉強している人を、
侮ってはいけません。


問題提起をする人を、自分の思い込みで、
侮ってはいけません。


真剣に物事を考える人や、知らない事を一生懸命勉強している人や、問題提起をする人を、侮れるほどに、貴方はとりたて物事を知っているわけでも、賢いわけでもありません。


誰かを侮ったところで、貴方の価値が上がるわけではありません。

心ある人に、反対に侮られるだけです。


真面目に物事を考える人や、知らない事を一生懸命勉強している人や、問題提起をする人を侮る貴方は、近くにいらっしゃるイエス様を見て、やはり侮るのでしょう。





自分が人を侮っている事に気が付かないなら、他の牧師の方々を「好意的」に良く観察してみるのも良いですよ。

是非、人を侮らない牧師の方々を良く観察して勉強されるのも宜しいかと思います。





人を侮る牧師の貴方。


貴方は、どの立場で人を侮っているのですか?


勘違いもほどほどに致しましょうね。




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キリスト教批判について思うこと

キリスト教を、又は、クリスチャンを批判しているブログというものがある。
又、書物がある。

私は、よくそういうブログを訪問させて頂く。
書物も、読ませて頂く。


クリスチャンだったけれど今は辞められた方、
クリスチャンではあるけれど、教会を離れられた方
又、教会を変えられた方、
色々な方が、色々な角度から批判されている。


そして、キリスト教批判ブログや書物を読ませて頂いて私は3つの事を強く感じる。

♦品位を感じる
♦クオリティーの高さを感じる
♦賢さ(知識が有る無しとは関係ない)を感じる

私は、この3つを強く感じる。


激しく怒って書かれている方も、静かに怒って書かれている方も、理論面に書かれている方も、淡々と書かれている方も・・・・
表現のされ方は色々ではあるけれど、殆ど全てのキリスト教批判ブログや書物の文章に、品位とクオリティーの高さと賢さを、私は感じる。

そして、真面目さと真摯さとピュアさを感じる。


考えてみれば当たり前である。
真面目で真摯でなければ、真剣にキリスト教批判を書ける筈など無いのである。


おまけに、書かれている批判の内容は、「ごもっとも」なのである。


そして更に私は思う。



「畑が違う」とは、こういう事なのだな・・・と。



クリスチャン批判をされている方々は、ハッキリと「畑が違う」のである。

クリスチャン批判をされている方々の畑は、
品位があり、質が高く、賢く、真面目で、真摯で、ピュアな畑なのである。

そして、細やかな神経を持つ畑である。


そして、キリスト教批判やクリスチャン批判をされている方々が何に怒っているかというと・・・

そんな大切な自分の畑を、荒らされた事に対して怒っているのである。


品位がなく、質が悪く、おバカさんで、いい加減で、薄汚く、神経の荒い、クリスチャンと呼ばれる者達が無神経に人の大切な畑に踏み込んで、荒らして行ったことに対して怒っているのである。


普通、人はそういうことはしない。



人の畑にづかづかと入り込んで荒らすような事はしない。

そんな事をされたら誰だって怒る。





「畑が違う」のである。



クリスチャンと呼ばれる者達は、ちゃんと、自分の畑が、どんな畑であるかを知り、分をわきまえて、人の美しい畑に無神経に入らないようにした方がよいと思う。


入りたければ、自分を先ず、そのレベルまで高める事である。


自分の大切な畑を荒らされた人達は本当に迷惑をしている。


これが・・・・

クリスチャンやキリスト教批判をされている方々のブログや書物を読んで、私が思う事である。



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お母さんがいない

僕のうちには、先生がいる。
でも・・・お母さんはいない。

僕のうちには、先生がいる。
でも・・・お父さんはいない。




僕のうちの先生は、いつでも、とっても正しいことを言ってくれる。

だから僕は、ホントの気持ちを言えなくなってしまうんだ・・・

ホントの気持ちを言えないのは、とっても悲しいんだ。

僕は、僕のホントの気持ちを聞いてくれる人が欲しい。





僕のうちの先生は沢山、色んなことを教えてくれる

でも、僕の話は聞いてくれない。
聞いてるようで聞いてくれていない。


僕はいつも、先生の言うことに従うばかり。

僕は、とっても、良い子だから・・・。



でも・・・
良い子にしてると、時々、ものすごく疲れるんだ。






そんな時は・・・
すごくお母さんに会いたくなる。
すごくお父さんに会いたくなる。


でも、僕のうちには、お母さんがいない。
僕のうちには、お父さんがいない。


正しいことを言う先生がいる。
立派なことを言う先生がいる。



お母さんに会いたい。
お父さんに会いたい。


お父さん・・・お母さん・・・・

どこに行っちゃったの?




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「雅歌」と与謝野晶子

皆様は、与謝野晶子さんはお好きしょうか?(^.^)


「君死にたまふことなかれ」


私がこの歌と出会ったのは、確か中学三年生の時だったと思います。
教育実習でいらした男の先生が朗読して下さったという記憶があります。

「君死にたまふことなかれ」

初めて聞いた、この歌に、強い衝撃を受けた事を覚えています。

とても激しいこの歌は私を惹き付けずにはおきませんでした。
その後も、与謝野晶子さんって、どんな女性なのだろうという関心を持ち続け、知るほどに惹き付けられました。
そして、随分長い期間、彼女に憧れました。


この時代(与謝野晶子さんの時代)に、この歌を発表した、彼女の勇気と情熱と激しさ・・・
まさに、命がけであったろうと思います。
命と引き換えであったろうと思います。
命より大切なものを持っていらした一人の女性に、中学生最後の年に出会えた事は、私にとって幸せなことでした。


そして少し時がたち、今度は、


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

やは肌の
あつき血潮に
ふれも見で
さびしからずや道を説く君

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


の、有名な歌に出会います。

恋に落ちた女性のストレートな本音です。
取り繕わない本音です。
私は、彼女のこの歌にも強く惹かれました。
この歌も、この時代の女性の歌としては衝撃的であり、非難も随分されたことと思います。


けれど・・・私は、本音の歌が好きです。




そして・・・・。

又、しばらくして、今度は、聖書の「雅歌」に私は出会います。

雅歌は信者の間で何故か余り話題に出たり、取り扱われたりしないのですが、私は個人的に大好きです。

この、おおらかで美しすぎる恋の歌は、やはり私を強く惹き付けました。

どの節のどの章も大好きです。


♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。

エルサレムのおとめたちよ、誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦


文句なしの共感です。


思えば、雅歌も与謝野晶子さんの歌も、とことん本音です。


私はどうやら、とことん本音が好きな様です。


綺麗事や、建前や、まわりもった言葉や、飾った言葉・・というのは、あまり好きではない様です。
どんな立派な言葉より、人としての、とことん本音の言葉しか、私の心には響かない様です。
皆様も、そうではないかと思うのですが、如何でしょうか?(^.^)


目を背けたくなる様な本音でも・・・
嘘の言葉より素敵・・・私の本音です(^.^)



♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦

君死にたまふことなかれ

・・・・・・・・・・・・

親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへ(教え)しや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

・・・・・・・・・・
           by 与謝野晶子

♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦♦



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「媚びる」信者と「媚びさす」牧師

梅雨に突入しましたが、皆様、お身体の調子は如何でしょうか?
私は、昨晩いきなり嘔吐と発熱に襲われダウン。
まさか・・・食中毒?と思いながら今朝は復活。
ただの風邪だったようです(^^;
この季節、体調管理には気を付けたいものです。


さて・・
今日は「媚びる」という事について書かせて頂きたいと思います。



私は「媚び」の一切をタブーとする世界の仕事をしています。
プライバシーの事もあり、仕事の内容は書けませんが、「媚び」と正反対の位置にある仕事をしています。
「媚び」と正反対の位置にある世界というのは、所謂、「道」と言われる世界に多い様に思います。

例えば、武道や、歌舞伎や・・その道の性質上、一切の媚びをタブーとする世界があります。

私も、そういった世界に何十年も身を置いている人間です。

幼い頃から、媚びた表情、しぐさ、身のこなし、言葉・・・などは一切良しとされない世界だった事もあり、「媚び」にはかなり敏感かも知れません。



そして・・・
私自身、この「媚び」は、あまり好きではありません。

私だけでなく、おそらく殆どの人が、「媚び」は、あまりお好きで無いのでは・・・と思っているのですが、皆様は如何でしょうか?
どんな人も、媚びずにすむのなら、媚びずにいたいと思われているのではないのかと思っています。


しかし・・・

媚びなければ、生活出来ない・・という現状もあったりします。
媚びなければ、家族を食わしていけない・・という現状があったりします。

卑屈になどなりたく無いけれど、卑屈にしていなければ生きていけないという悲しい現状・・・。


残念に思いますが、そういった現状が、確かにあります。




どうして、そうしなければ生きていけないのか・・・・・。

答えは簡単。

「媚びられて喜ぶ人」がいるからです。
「媚びられていなければ自分を保てない人」が、いるからです。

媚びる人も、そういう人を相手に「媚びて上手く事が運んだ」又は「媚びなかったせいで大変な目にあった」という悲しい経験があったからこそ媚びるのだと思います。


「媚びさす人」というのは、
自分に自信の無い人。
本当は引出しが余り無いのに、それを見破られたく無い人。
自分だけが、他より素晴らしいと言われなければもたない人。
なのだと私は思います。


そして・・・
一部の教会内でも、信徒と牧師の先生の間で、こういう事が起こっているのは、皆様も良くご存知のことと思います。
なんだかんだ言っても他の牧師より自分が素晴らしいと思って欲しい牧師。
よく聞いていると、自分以外の他の牧師にケチをつけている牧師。がいる教会は要注意だと私は思っています。
心の品格のある人間は、そういう事は恥ずかしくて出来ません。
そういう牧師は、一見フレンドリーでも、様々な形で信徒に「媚び」を求めると私は思っています。



教会は沢山あります。
何も、「信徒に媚びて貰わなければ自分を保てない牧師」がいる所にいる必要はありません。

「信徒に媚びて貰わなければ自分を保てない牧師」がいる教会を離れても十分生きて行けます(^.^)


貴方の一番大切なものを、そんな牧師に売ってはいけないと私は思います。

そんな事をすれば、貴方が消えて無くなってしまいます。

他の教会を回れば、「媚び」を求めない牧師の先生は必ずいらっしゃいます(^.^)
カトリックの場合なら「媚び」を信徒に求めない神父様は山ほどいらっしゃいます(^.^)

だから、是非、少しの勇気を出して、「媚び」を求める牧師がいる教会からは離れて頂きたいと僭越ながら思います。


エス様は、一度も誰にも「媚び」ていらっしゃいません。
エス様は、一度も誰にも自分に対して「媚び」させていらっしゃいません。


それが、イエス様を見る・・・という事だと思います(^.^)

そしてそれが・・・
心の品格なのだと・・・
私は思います(^.^)


それでは皆様、良い一週間を・・・(^.^)



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