metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

証をした友達  コメント4

僕は寂しかったんだ。

ずっと独りぼっちで寂しかったんだ。

お友達と楽しく遊んでいるみんなが、いつも羨ましかったんだ。

僕も、みんなと遊びたかったんだ。

でも僕は、みんなみたいに上手にお友達とお話しが出来ないんだ。


休み時間は、いつも独りぼっちで寂しかったんだ。



だから・・・

君が、休み時間に僕に話かけてくれたとき、ものすごく、ものすごく嬉しかったんだ。

それからはずっと、休み時間は君とお話ししたね。

すごくすごく楽しかった。

沢山、沢山お話ししたね。

それから、下校も一緒にするようになったね。

好きなサッカー選手の話や、マンガの話・・
沢山、沢山お話しして楽しかったね。


夏は、お庭にホタルがいるからって・・・

君は、家にも誘ってくれたね。

ホタル・・光がとても綺麗だった。

君と一緒に見れたのが、とても嬉しかった。




ある日・・・
君は「日曜日に一緒に教会に行こう」って、僕を誘ってくれたね。

教会って、どんなところだろう・・?
わくわくしながら君に連れられて教会に行ったんだ。


お兄さんやお姉さんや、おじさんやおばさんが沢山いた。


みんなが君に「証だね」って言ってた。
君も、「証をした」って、なんだか得意気だった。



「証」?・・・・。
「証」ってなんだろう・・・?



しばらく、おじさんやおばさんと君が話ているのを聞いていて、やっとわかった。


「証」って・・・
僕を教会に連れて来たことだったんだ。





寂しかった。

僕は又、独りぼっちになった。

僕は本当に君のことが大好きだったんだ。

寂しかった。




君が、「一緒にお祈りしよう」って言った。




僕は神様にお祈りした。


神様・・・。
僕は今日、大好きだったお友達を失いました。
とても哀しいです。
こんな哀しい思いをする子が、もう僕の他にいる事がありません様に・・・。
神様・・・・寂しいです。
お友達が欲しいです。


「夕方になるけど一緒に帰ろう」と君が言った。
僕は、「ごめんね。用事があるんだ」って答えた。



僕は独りぼっちで家に帰った。


家に帰って、部屋の鍵を閉めて泣いた。

泣いて泣いて、気が付いたら晩ごはんの時間だった




でも・・・

僕は、今日、強くなった気がする。


もう、独りぼっちでも大丈夫。寂しくない。



だから・・・

きっと、これからは友達が出来る。




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20点の自分を80点と言い、80点のノンクリスチャンを20点と言うクリスチャン

一部のクリスチャンの人と話をしていて感じる事は、ノンクリスチャン対しての悪口が、兎に角多いと言う事である。

学校の先生の悪口から始まり、ご近所の人の悪口、職場の人の悪口、人のお子様の悪口・・・。

聞いていたら、殆ど悪口しか話さない。

嬉々として話す姿は本当に異様である。

そして次にくる話は、自分達クリスチャンは、どれ程、世の中の人と違って素晴らしいか・・・という話である。


現実は違う。



学校の先生も、ご近所さんも、職場の人も、人のお子様も、実にわきまえがあり、礼儀正しく、善良である。


クリスチャンの貴方の方が、わきまえがなく、厚かましく、お行儀が悪く、悪意に満ちている。


現実には目を向けず、ノンクリスチャンというだけで点数を低くし、クリスチャンというだけで点数を高くするクリスチャンが結構多いのである。

そういうクリスチャンの所属されている牧師の先生の説教を聞くと、説教の中にノンクリスチャンの人に対する悪口が必ず入っている。


私なら、こんな説教をする牧師のいる教会など2度と行かない。

こういう教会に嬉々として通う人は、もともと好戦的で攻撃的な悪口大好きな人か、そういう教会に小さい頃から親に連れられて、マインドコントロールされてしまった二世さんかのどちらかだろうと
思う。


二世さんは兎も角、結局は類は友を呼ぶのだと感じてしまう。




しかし・・・
そういう人達は本当にもともと、悪口大好きであったのであろうか?とも思うのである。


そういう教会の牧師の先生や、信者の方々を見ていて、ひとつ感じる事がある。

これは全く私の個人的な感性であるが・・・

「強烈なコンプレックス」である。


何か分からないが「強烈なコンプレックス」を感じるのである。

その「強烈なコンプレックス」が自分達を80点とし、ノンクリスチャンを20点として、現実から目を背けさせている様に感じるのである。


そして思うのである。

ひょっとして・・・・
貴方は、本来感じる必要の無いコンプレックスをコンプレックスとして抱えているのではないのか・・・と。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

♦20点の自分を80点にして80点のノンクリスチャンを20点にしてしまう貴方へ♦


誰が、そのコンプレックスを感じさせたのだ?

そんなコンプレックス捨ててしまえ!
貴方のせいなんかじゃない!
本来持たなくても良いコンプレックスを、誰かの都合で持たされているだけじゃないか!
そんなコンプレックス捨ててしまえ!


20点でもいいじゃないか。
そこから始めれば良いじゃないか。
みんな、20点のところも80点のところもあるのだから、いいじゃないか。




貴方の持つ必要の無い、強烈なコンプレックスが、20点の自分と向き合う事を邪魔してるのではないかと感じる。


もう一度言いたい。

そのコンプレックスは誰かに植え付けられたのだ。
決して、貴方のせいじゃない。
誰かの都合で持たされたコンプレックスなんだから、さっさと捨ててしまおうよ。



そうしたら・・・

20点の自分を80点にして、80点のノンクリスチャンを20点にする様な、架空のお伽噺の世界から抜け出す事がきっと出来る。


貴方の世界が広がる。

貴方が批判ばかりしていた、貴方の言う世の中の人の温かさに出逢う事が出来る。


それは、貴方が知らなかった温かさである。


温かいよ。




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仕事しようよ(^.^)

仕事をしようよ・・・

仕事をしないでも、着て食べて寝れる身分なら、そのままでも良いけれど・・・

そうじゃないなら仕事をしよう(^.^)


肉体的に、又は精神的に、仕事をする事が難しい状態にいないのなら、逃げずに仕事しようよ(^.^)


疲労困憊になって身体と心を壊さない様にだけ気を付けて仕事しようよ(^.^)


もし、休める状況になくて身体と心を壊してしまったのなら、先ず病院に行こうよ。
病院に行けるだけでも有難い事だもの。
行きたくても行けない人から、なんて贅沢な!と怒られるよ。
仕事をしたくても出来ない状況にある人から、なんて贅沢な!って思われても仕方ないよ。



仕事をしようよ。



教会の奉仕とか献金とかで生活が困難になってしまったら本末転倒だと私は思うよ。


仕事をしようよ(^.^)


しつこいけれど、仕事をしたくても出来ない人、休みたくても休めない人・・・世の中にはそういう人がごまんといるのに、仕事ができるのに仕事をしないなんて、とても贅沢な気が私はするの。



信仰が仕事に差し支えるなら思い切って聖書を閉じてみるのも良いと私は本気で思っているよ。
ナビが良ければ聖書の言葉は生きる力になるかも知れないけれど、ナビによっては最悪の結果になったりする事もあるよ。
いったん聖書を閉じて働いて・・・
そしたら、新しいナビに出会えるかも知れないよ。



そして・・・
座って聖書ばかり読んで考えていたって、働かなければ、食べていけないよ。
聖書の使い方、間違えているかも知れないよ。



神様は、日々の糧を与えてくれると信じて働こうよ。


そして助けて頂いたら、抱え込まず手を広げようよ(^.^)


貴方はまだ、山と谷なら谷側だよね。


平らな位置にいけるから・・・神様が助けて下さるから、そう信じて先ず平らな位置を目指そうよ。


着て食べて住めて・・ある程度の文化的生活も出来る平らな位置を目指して働こうよ(^.^)


それが困難な状況に置かれている人達と一緒に平らな位置を目指そうよ。


決して抱え込むことなく、目指そうよ。


仕事は楽しいよ(^.^)
しんどくても楽しいよ(^.^)




聖書の言葉も良いけれど・・☆
信仰について熱心なのも良いけれど・・・☆


そればかり頭にあると目の前の仕事に集中出来ないよ。
そればかり頭にあると、日常の事は、とても面倒でつまらなく虚しく、とても苦しく感じてしまったりする事もあるみたいだよ。

当たり前だよね。
人間の頭は同時に二つの事は考えられないものね。
聖書の言葉が頭に駆け巡りながら、仕事の内容に集中するのは不可能だよね。
仕事に集中している時は、当然、聖書の事は頭から外れているはずだよね。
でもそれは不信仰なんかじゃないと思うよ。
それが不信仰だと思っている人っているよね。
そんな人達を私は知ってるよ。
年から年中愚痴って、けだるそうだよ。
とても暗くて辛そうだよ。
それか、いつも好戦的だったり、イライラしているよ。



仕事に集中する事は不信仰じゃないと思うよ。
勉強に集中する事も神様を忘れる事ではないと私は思うよ。
クラブ活動に精を出す事も、お友達と交遊を深める事も決して不信仰でも無いし、神様を忘れた事にはならないと私は思うよ(^.^)


気を付けて。
下手すると、闇の中に引き摺り込まれるよ。


働ける状況にあるのなら働こう(^.^)
働けない状況にある人と一緒に歩こう(^.^)


大丈夫だよ。
神様は助けて下さるよ。


大丈夫だよ。


不信仰なんかじゃないよ。
どんなに仕事に精を出して集中したって・・

貴方は神様を忘れてなんかいないよ。

大丈夫だよ。


聖書の言葉は日常生活の中に生きていると思うよ。


神様に希望をおいて、働こうよ(^.^)


大丈夫だよ!(^.^)





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卑怯者

エス様が全ての人に蒔いて下さったという種。

 
私は自分に蒔いて下さった種を信じきる事が出来るのだろうか・・・
そして・・・自分以外の全ての人に蒔いて下さったという、その種を信じきる事が出来るのだろうか・・・




あの教父達も・・・
あのルターさえも・・・
そしてカルヴァンも・・・・・

信じ切ることが出来なかった、イエス様が全ての人に蒔いて下さったという種。





私の前に、瀕死の傷を負った君がいる。
私は君の隣人になれるだろうか・・・。



私は君を助けたいんだ。
けれど君を助けると、後で君は私を殺すだろう。

私は君を助けたいんだ。
けれど君を助けると、後で君は私の親を殺すだろう。

私は君を助けだいんだ。
けれど君を助けると、後で君は私の大切な人を殺すだろう。

私は君を助けたいんだ。
けれど君を助けると、後で君は私の子供を・・・。



突き付けられるイエス様の種。


どうすればよいのか本当は知っている。


「どうするのか?」とイエス様の種が問う。


向き合うことが出来ない私は・・
顔を背け、イエス様の種から目を逸らせうつむく。

鋭いナイフが私の胸に突き刺さる。


私の名前は・・・

「卑怯者」。



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喧嘩

喧嘩はしないにこした事はないのかも知れない。

けれど・・・
喧嘩が出来るということは、それだけで幸せな事なのだと私は思っている。

喧嘩が出来るということは、対等な関係であるという基本的な前提がある。

喧嘩をするということは、少なくとも相手に対して対等だという敬意がある。

無視をしない。適当にあしらわない・・・という人間同士の最低限の礼儀を相手に持っているということでもある。


裏を返せば、相手にしない、無視をする、スルーする・・・・というのは、ハッキリ相手に対しての見下しがあるという事である。


見下した相手とは喧嘩は成立しない。


本人が意識するしないに関わらず、喧嘩をしないというのは、ひとつの見下しであることは確かだと私は思っている。



「喧嘩は絶対に駄目だと」正論を振りかざす人というのは、「喧嘩さえしてもらえない」見下された人の怒りと、やるせなさと、もどかしさと、哀しみを知らない人なのかも知れない。


喧嘩するという事は、相手の人間としての存在を否定していないという証拠でもある。
しかし、見下しは、相手の人間としての存在を否定している事に繋がる。


「喧嘩をしない」という事は必ずしも相手を尊重している事と繋がるわけではない。
むしろ、その逆であったりする。


エス様は、誰ひとりとして見下されていない。
少なくとも私は、聖書の中に、その形跡を見つける事は出来ない。





私は・・・
貴方を強く抱きしめ、哭き声をあげ、愛していると叫びながら、貴方と喧嘩をしたい。


愛している。
だから貴方と喧嘩する。


「喧嘩をしてくれて有難う。」


貴方の言葉が痛すぎる。


貴方を愛してる。


愛している。




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説得力

100の説教より、


その人の生き様ひとつを見る方が、


よほど説得力がある。





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口だけ立派

「口だけ立派」というタイプの人がいる。
そういうタイプの人達の「口」は、時に、苦しんでいる人、助けが必要な人にとって暴力になったりする。

例えば一例だが、介護者に対して、
手も貸さない
お金も出さない
けれど口は出す。
・・・・というタイプである。


そういう人達の口というのは、「とても立派」な事を言ったりする。
けれど手は貸さない。

そういう人達は時に、「貴方の為を思って」という大義名分を笠に立派な事を言ったりする。
けれどお金は出さない。


「立派な事を言う口」に真実など私は感じない。
何もしないで「貴方の為を思って」という人の、その言葉は嘘である。



立派な事を言う前に、助けが必要な人に対して、出来ることはいくらでもある。

本当に貴方の為を思うなら、立派な事を言う前に、やれる事は沢山ある。



「立派な事」を言う人というのは、本当は自分しか
見ていない。
自分しか見ていないので、相手が見えない。
相手を見ていないので、目の前の苦しんでいる人が、何を必要としているかが見えない。

というより、見ようとしない。


こういう人達の言葉は、どんな立派な事を並べても、苦しんでいる人の前には、ただの暴力である。




人は、立派な人など必要としていない。


人は究極、立派な人より、有難い人を必要としているのだと・・・・私は思う。




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