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metanoiaxの日記

クリスチャンの立場からクリスチャンへの疑問や、やるせなさを綴っています

自分の信仰を押し付ける人達

「断定」に弱い人は結構多い。
特に苦しみの中におり、迷いの中にいる状況の時、人は「断定」してくれる人にすがりやすい。

「断定」する人も、余程の自信があって断定するの
であろう。




「断定」する人には、2つのタイプがあるように私は感じている。

ひとつめのタイプは・・・
「断定」した表現をした後、「・・・と、私は思う」又は「・・・・と私は信じる」という姿勢がある人。

もうひとつのタイプは・・・・
「断定」した後、「・・・・と、私は思う」という姿勢が全く無く、人に自分の考えを押し付ける人である。



「・・・・と、私は思う」という姿勢がある人は他者との関係において、尊重がある。
しかし、「・・・と、私は思う」という姿勢が無く押し付ける人は、他者との関係において、尊重は無い。と私は感じる。


そして「・・・と、私は思う」という姿勢が無い人は、次第に自分が神になり、他者に自分の考えを強要し「力づく」という形の押し付けをしだす。
じわじわと、独裁が始まる。

やがて、その人の周りにはイエスマンしか居なくなる。



教会の中においても、こういう事は比較的起こりやすいのではないかと私は感じている。
カルトと言われる教会だけでなく、「正統な」と看板を掲げる教会であっても、程度の差はあれ、起こっている現象だと私は感じている。


そして、それは時に、聖書の言葉を用いての押し付けであったりする。


私はこれ以上の偶像崇拝は無いのでないかとは思っている。




相手が聖職者という立場にいる人であれ、古い信者の方であれ、新しい信者の方であれ、「・・・と、私は思う」という姿勢が無く、押し付ける人を、私は信じない。

そういう人達は、自分の思い通りに人を動かしたがる人達だと・・・
人を支配したがる人達だと私は思っている。


教会の中において、役割やルールはあっても、支配する人と支配される人が、あってはならないと私は思っている。


苦しんで迷いの中にいる時、「断定」の後に、「・・と、私は思う」という姿勢のある人は、苦しんでいる人にとっては、心許ないかも知れない。
ある意味それは、自責を尊重するからである。

「・・・と、私は思う」という姿勢が無く押し付ける人に、ついていく方が、楽かも知れない。
それはある意味、他責であるという事につながる。
他責であるから、その時は楽であろう。


しかし・・・
「・・・と、思う」という姿勢の無い押し付ける人というのは、案外、他責主義で、自分の断定した言葉に責任を持たなかったりする。


自分が他責主義だと、弱っている時、他責主義者の言葉に頼ってしまいがちになる。
しかしそれは、結果、後で泣くことになる場合が多々あったりする。


弱っている時こそ、「断定」の後に「・・・と、私は思う」という姿勢が無く押し付ける人には、気を付けたいものである。



私は個人的にファッショは嫌いである。


私は、教会にファッショの風が吹いて欲しくないと
と・・・願う者のひとりである。



自分が、何をどう感じ、どう思うかは、全く個々自由であるが、それを人に押し付ける事だけはお互い控えたいものである。




最後に蛇足ですが、文章の断定というのは、表現の方法であり、押し付けかどうかは、行間を読めばわかる事は言わずもながです。
勿論、その際、受け手の読解力、及び感性と、書き手の表現力に頼る所が大い事は、言うまでもありません。ホント・・蛇足ですね (^^; 
失礼致しました(^^;


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義憤

恥を知らぬ者達が、堂々と
「義憤」を叫ぶ。

この怒りは「義」だからと
自分達の怒りに「義憤」という名を付ける。


「義憤」という言葉を使い人を裁く。

「義人」はいないと人を裁き自分が義になる。



「義」はある。
「義」は存在する。


義人はいないと言うおまえの「義」とは
なんなのだ?




義人はいないと裁く者達の義憤によって
小さき者達の声は掻き消される。





神の義を知る人はどこにいる





おまえなのか?
それともおまえなのか?



「義」に迷いながらも


私はただ
泣いているおまえのそばに居たい。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

詩や、散文というものに解説や注釈を付けるのは、とても野暮な気がして本来、私は好きではありません。
私は詩であれ、散文であれ、書いて人に公開した時点から、その詩や散文は自分の手から離れ、人のものとなると思っています。
受け手の感性が様々である様に、公開した詩や散文は、それぞれの感性によってその人のものになると思っています。

私の詩や散文を、どういう風に感じて下さったにせよ、私は、拙い私の詩や散文を読んで下さったという事がとても有り難く、感謝しています。


中には、私の言わんとしたい事と正反対の受け取り方をされていらっしゃる方もおられる事と思います。

あの遠藤周作さんでさえ、全く自分の言わんとする事と正反対の解釈がなされていると、仰有ったのですから、素人の詩ともいえない私の詩が、自分の思い通りの解釈をして貰えると思うのは厚かましい事だと思っています。


詩も絵も音楽も彫刻も踊りも・・・
産んで手放したその日から、人々のものになると私は思っています。



「義」については、私は私なりに思う事が沢山あります。
皆様も沢山おありの事と思います。
色々な聖書解釈がある数だけ、これが「義」だとする数も色々なのかも知れません。
とすると「義人」とは、その「義」とは・・・という所から、もう一度考え直さなければならないのではないかと私は思っています。
私は、今の時点で納得する解釈がありますが、将来又、求道する中で変わるかも知れません。
色んな話を聞き、読み、感じ、考える中で変わっていくかも知れません。
それで良いと自分で思っています。



拙い詩ですが、読んで頂けた事を嬉しく思います。
有難うございました。


それぞれの・・・
皆様の大切な感性のままに・・・(^.^)



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女性という立場

私は、女性という立場は、男性に比べ、非常に弱い立場にあると思っています。

そこそこ平穏な状況にある時は、「そんな事は無い。女性の方が強い」と、言われたり思われたりするかも知れません。

しかし、切羽つまった状況下に置かれると、やはり女性は色々ハンディキャップが多いと言わざるを得ない現実に晒されてしまうのも事実かと思います。


例えば・・・

キリスト教のブログなので、宗教を例にさせて頂きます。


親には、自分の宗教を子供に勧める自由が保証されています。
又、子供はその勧めに対して賛同する自由も、拒否し、その事を表現する自由も保証されています。

もし、子供が親の宗教を自分も信仰する事を拒否したとします。
そして、子供が拒否した事を理由に・・・
「家を出ていけ」「食わしてやらないぞ」又は暴力を子供に加えたとします。
その際、子供は児童相談所に駆け込む事が出来ます。
そして、親の宗教を信仰しなくても、衣食住は与えられます。
所謂「子供の権利」が守られます。
女児も男児も守られます。

しかし・・・これは未成年迄です。



では18才以上で、同じ状況になった場合はどうなるか・・・


「家の宗教をおまえも信仰しないなら食わしてやらないぞ」・・・と、親が言ったとします。
18才になっていますから、女性も男性もアルバイトでも何でもして、何とか自分の食い扶持位は確保する事が出来ます。


次に、
「家の宗教をおまえも信仰しないなら出ていけ」・・↓と、親が言ったとします。
18才以上にになっていますから、時間はかかっても家を出る準備が出来ます。
シェアハウスという手もあります。
出て行く迄の我慢です。
出て行けば女性も男性も自由になれます。


最後に・・・
「家の宗教をおまえも信仰しないならこうだぞ!」・・・と、男親が暴力に出たとします。
18才以上の男性なら、男親に負けない腕力を身に付ける事が可能です。
不思議なもので、その子が男親以上の腕力を身に付けた時、その男親は暴力を奮わなくなります。
又、「家の宗教をおまえも信仰しろ‼」とも言わなくなります。

けれど・・・
18才以上になっても、女性は男親以上の腕力を身に付ける事は殆んど不可能です。
腕力では、どうしても敵いません。

女性保護施設も、旦那からのDVから女性を守ってくれても、男親からのDVは余程で無い限り、親子喧嘩、という扱いになりやすいです。
親からの暴力を専門の弁護士に相談するのが一番良いかと思いますが、何かと入り用です。

男性に比べ、どうしてもハンディキャップを背負った現実に晒されます。


これは一例ですが、最終、男性の暴力というものに対して、女性はどうしても無力です。



私は10年程前にクリスチャンホームの児童から、切羽つまったSOSを受けました。
プライバシーの問題もあるので余り詳しく書けませんが・・・
自分でもわけのわからないまま、その子のSOSに応え、気が付くと、その子に食べさせ、話をただ聞き、言葉を教え、自分で食べていける力と・・そして腕力とを身に付けさせていました。
意図してそうした訳ではなく、ただその子のでSOSに応えていたら、結果そうしていたという感じです。壮絶な10年間でした。気が付くと巻き込まれていたという感があります。
(その間、親御さんのご意志を無視していたわけでは決してありませんが詳しくは書けません)


キリスト教のブログで、この様な事を書くのも恐縮した思いもあるのですが・・・・

力を付けたその子は成人になり、教会を離れました。
しかし今では、親の暴力に怯えることもなく、フラッシュバッグに悩むこともなく、コミュニティ障害に苦しむ事も、感情喪失になることもなく、自分で考え、自分の意志で行動し、責任も持ち、私に頼ることなく自立して楽しく生きています。
時には私が頼る程に迄なりました。



しかし、これはその子が男の子だったからかも知れません。
女の子だったなら、障害はもっとあったのではないだろうか・・と思っています。


エス様が、女性に優しかったのが、とてもわかる様な気がします。


私は、キリスト教であれ、他の信仰であれ、「脅し」をする宗教は、それだけで禍々しいものを感じます。


力でねじ伏せる。



本来、イエス様か一番お嫌いになったことだと、私は思います。



家庭レベルであれ、国レベルであれ、もう2度と同じ間違いをおかしてはならないと・・・


私は、強く強く願います。



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声なき者達の唄

おまえの目を塞いだのは誰なんだ。

おまえの耳を塞いだのは誰なんだ。

おまえの口を塞いだのは誰なんだ。


塞がれた目で歩くおまえ。
外が見たいと泣いても塞ぐその手にはいっそう力が入る。

無念であったろう。
やるせなかったであろう。



塞がれた耳のままうずくまるおまえ。
「私の言葉以外は聞かなくてよい」と言われ、何も聞けなかったおまえ。
貴方以外の声を聞きたいと泣いても、その塞ぐ手にはいっそう力が入る。

哀しかったであろう。
心許なかったであろう。



塞がれた口のまま立ち尽くすおまえ。
溢れる想いを口に出したいと泣いても、その塞ぐ手にはいっそう力が入る。

悔しかったであろう。
震えが止まらなかったであろう。




拳で胸を叩き、ここにいっぱいあると泣くおまえ。
取り返しのつかない時間を返せと泣くおまえ。




権威を持たぬ者達の声。
何も持たぬ者達の声

声なき者達の声。




振り払え。


おまえの目を塞ぐその手を振り払え。
おまえの耳を塞ぐその手を振り払え。
おまえの口を塞ぐその手を振り払え。



そして高らかに謳え。

誰かが愛して止まない、おまえ達のその唄を。




権威を持たぬおまえ達の唄。

何も持たぬおまえ達の唄。

声なき者達の唄。



塞がれた手を振り払い

高らかに謳え。



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断罪するな

「断罪するな」と声がする。



踏みつけられた者達が叫ぶ。

「断罪するな」と声がする。



踏みつけられた者達が怒る。

「断罪するな」と声がする。



踏みつけられた者達が泣き叫ぶ。

「断罪するな」と声がする。



「お前は人なのだから神ではないのだから」と
「神が裁いて下さる」と
「お前も罪人なのだから」と

「断罪するな」と声がする。



血に染まった土の中から泣き叫ぶ声が聞こえる。
傷だらけの魂を差し出し怒るお前の声が聞こえる。



「断罪するな」と声がする。

「口を塞げ」と声がする。



踏みつけられた者達の声が聞こえなくなる。




血で染まった手で盃を上げ、満足気にお前は言う。

「断罪するな」




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聖書解釈いろいろ・・聖書の中の「よい」「わるい」

聖書解釈というのは、本当にいろいろである。
専門家の方々の解釈を色々読めば、その読んだ数だけ、解釈があったりする。

大抵、ギリシャ語、ヘブル語他、もっと細かく分類した言葉から、解釈を導きだす。

そんな数ある解釈の中から、日本語のどの言葉を当てはめて訳すかという作業は並大抵ではないだろうと思う。
本当に翻訳家の方々の苦労と労力には頭が下がる。


牧師の先生方も、つまるところ、自分が習われた宗派の神学による翻訳の解釈から、信徒さん達に「聖書にこう書いてあります」・・・とお説教をされるわけである。

どんなに神学を軽くみても、「聖書にこう書いてあります」と言う以上、その神学の解釈の上に、その人の言葉は成り立っているのである。


しかし・・・
時に、既定の神学から離れて、もう一度、原語そのものと原意を見直し、研究し追究される学者の方々や、牧師の先生や神父様がいらっしゃる。
所謂、プロフェッショナル中のプロフェッショナルな方々である。

既定の神学に頼らない、「真実の追究」に挑む方々であり、神学そのものの見直しをされている方々である。
そういう方々の書物を読ませて頂いて感じるのは、おそろしい迄の勉強力と「真実の追究」に対しての熱い情熱である。

そして・・・そういう方々は大抵、真実よりも既定の神学を大切に思う者達から、「異端児」として扱われていたりする。

しかし、そういう方々の書かれている書物は、読んでいて説得力が違う。
又、そういう方々のお話は、聞いていても説得力が違う。

そういう方々の一番の関心事は「真実」であるから、質問をしても、一切の誤魔化しがない。
取り繕いもしない。
わからない事はわからないとハッキリ言われる。
「いいかっこ」が一切ない。

清々しさを感じると同時に、人としての、その品位の高さを私は尊敬する。

そして最近では、そういう方々の話を熱心に聞き、
「真実の追究」をされる人達が増えてこられている事に私は大きな喜びを感じている。

キリスト教も、ひょっとしたら、今又、過渡期なのかも知れないと・・思ったりする。




そんな「真実の追究」に励まれるプロフェッショナルな方の中のお一人の聖書解釈で、私が、とても納得している解釈がある。

許可を得ていないので、お名前は出せないが、次の様な解釈である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖書の、「よい・わるい」について。

聖書に出てくる「善い」には2つある。
「善い」と「良い」である。

ギリシャ語でも「善い」はアガトスであり、「良い」はカロス・・・と、使い分けられている。

おまけに、「善い・アガトス」の対義語は「抑圧的な悪を表す・ポネロス」。

状況的な「良い」を表す「カロス」の反対語は「カコス(適切でないなど)」。

と、ハッキリ使い分けられている。

しかし、聖書では時に、「良い・カロス」を「善い」と書かれていたりする。

ロマ12・9の「善」とロマ12・17の「善」とは、ハッキリ違う言葉で、意味も違うのである。
ロマ12・9は「ポネロス」でロマ・17は「カロス」である。

当然、訳も違ってくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上のような事である。
で、どのように訳されたか長くなるので控えるが、私は凄く納得である。


どの牧師の先生も、上記の様な事は当然、ご存知である。


私は言いたい。
ならば、どうして、カロスをポネロスと解釈されて、信徒に説教されるのかと・・・。
たまに、カロスはカロスと、そのまま信徒に説教される方もいらっしゃらる。
しかし、ほとんどの牧師の方が、カロスをポネロスと解釈されて説教される。


私達は、聖書に関しては素人なのである。
貴方の解釈などより、そのまま聖書に書いてある事を知りたいのである。

全て、既定の神学にしがみつき、「真実の追究」に目を向けようとしない事が原因の様な気が私はしている。
既定の神学の見直しを試み、「解放の神学」「民衆の神学」「痛みの神学」「下からの神学」「女性の神学」「荊冠の神学」など、どんどん専門家の方々が「真実の追究」に力を入れて追究して下さる事に私は心から感謝している。

合っているにせよ間違っているにせよ、その「真実の追究」は必ずいつか良い結果に繋がると私は信じている。

もう一度言う。
私達は素人なのである。

本当の事を・・そのままを知りたい。



人との関係で色眼鏡をかけていたら、相手の本当の姿は見えない。
聖書との関係で既定の眼鏡をかけていたら、聖書に書かれている言葉そのものは見えない。

色眼鏡を外して付き合いたい。
既定の眼鏡を外して関わりたい。


人と誠実にに向き合うとは、そういう事だと思う。
聖書と誠実に向き合うとは、そういう事なのだと、
・・・・私は思う。


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痛め付けられた羊が違和感を感じる教会

お気楽なものである。

食うに困る人の声に耳を傾けず、
着るに困る人から目を反らし、
住むに困る人から身を隠し
見向きもされない人の友にならず、


そんな者達が、教会の中で、お気楽に神を賛美する


食うに困る人の食事を食べ、
着るに困る人の服を着、
住むに困る人の宿を奪い、
見向きもされない人の友を取り込み


教会の中で神を賛美する。


気にしなくていいよと、賛美する。




手負いの羊達は、ここに居場所は無いと教会を後にする。


手負いの羊達と、その仲間のいる場所にたどり着いた時、手負いの羊はやっと眠りにつく。


手負いの羊達と、その仲間の笑顔と笑い声は、あの後にした教会の笑顔と笑い声とは違った。


力を貰える笑顔と笑い声だった。





お気楽な私は・・・
奪いながら神を賛美する者達の群れから外れて、ひとりになる。


ひとりぼっちで、あの手負いの羊のいる懐かしい場所に歩いて行く。





今日も奪いながら賛美する者達の声が聞こえてくる。


背中から、それでいいじゃないか、気にする必要などないじゃないかという声が聞こえてくる。




私は・・・
あの手負いの羊達がいる懐かしい場所に・・・

 
ひとりで帰る。



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